大学はサッカー専門学校ではない…Jリーガーから電通、スカパー!を経て早稲田大学監督になった外池大亮の夢【ごはん、ときどきサッカー】

グルメまとめ

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Jリーガーは引退した後どんな生活を送るのか

一流企業に就職出来れば残りの人生も安泰だろう

外池大亮は世界でもトップの広告代理店に就職した

これで彼の人生は安定するはずだった

 

ところが外池は別の会社に「移籍」する

さらには大学の監督に就任してしまった

はたして何が外池を突き動かしているのか

「天邪鬼」の考え方を聞いた

 

現役中から企業にインターン研修

僕が早稲田大学を卒業してベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)に入った1997年は、サッカーバブルの最後ギリギリみたいなころでした。中田英寿が活躍していて、アトランタ五輪が終わって日本代表に選ばれるようになり、ブルガリのでっかいネックレスをつけて開幕戦に出たりとかしてたころです。

 

そのころのベルマーレは小島伸幸さん、田坂和昭さん、名塚善寛さん、呂比須ワグナーさん、野口幸司さん、岩本輝雄さん、反町康治さん、都並敏史さん、洪明甫さんとか、日本や韓国の代表選手が揃ってたんです。優勝は出来なかったんですけど、Jリーグを盛り上げていくチームではありましたよ。

 

プロ2年目の1998年は、フランスワールドカップに日本が初出場して、大会後には中田くんがイタリアのペルージャに移籍して、そこからベルマーレはメインスポンサーのフジタ工業が撤退することになった、という1年でしたね。

 

その年には横浜フリューゲルスが合併でなくなってしまって、その陰でかなり財務的に難しい状態のベルマーレが残ったんです。チームは続いたんですけど、1999年には主力選手がほとんどいなくなったので、降格に向かって1年が進むみたいになりました。

 

でも逆に僕はそれで1年間ずっとフルに出してもらえて、そのおかげで2000年に横浜F・マリノスに移籍したという感じでした。マリノスでは本当にオールスターの中に入っていった感じで、どうやって自分の存在意義を見つけ出すかという時間を過ごしましたね。中村俊輔とか川口能活とか錚々(そうそう)たる人たちがいる中で、頑張ること以外に特に何もない自分をどうやって輝かせるかというところにこだわってたと思います。

 

正直付いていくのに精一杯だったっていう感じですね。シーズン11ゴールを決めることもできて「やれた」っていう実感がなかったわけではないですが、でもそれは周りがあって初めて自分が生かされていたというか。周りを生かすというより、生かしてもらう状況を作れて、初めて手にする手応えだったんで、自分がやってるっていう感じまでにはなれなかったですね。

 

そして2002年、日韓ワールドカップで日本が盛り上がったあとに初めて戦力外になったんです。「Jのトップのクラブ所属だし、何とかサッカーの世界で生活していけるはず」って思っていたら、各クラブのスケジュールがスタートしても自分がそこに入ってないっていうことを味わいました。

 

「これが引退するってことなのか」みたいなのを感じて、それで初めて「プロサッカー選手って何だったんだろう」みたいなことを思ったんです。

 

そこで自分を振り返ったら「サッカー以外何も見つけられてない」って気づかされました。あのとき初めて「やっぱり自分はサッカーを本当に続けたいんだ」とか「サッカーを続けるってのはこういうことなのか」とか、かなり考えさせられました。

 

その考える期間が丸々1カ月ぐらいあって、ちょうど制度が始まったトライアウトにも出してもらったんですけど「やっぱり引退だ」というとき、J2のヴァンフォーレ甲府に練習生として呼んでもらえました。

 

ヴァンフォーレは2次キャンプ中で、選手がケガして出来た穴を埋める選手が必要でした。また、チームがちょうど長身のボランチを求めていた事情もあって身長が184センチの僕をFWからコンバートしてはめてもらって。4日間のテストからスタートして、そこから入団を勝ち取ったって感じです。

 

そのテストの間に、もしヴァンフォーレで選手としてプレー出来る時間を与えてもらえるのであれば、甲府という地域の中でサポーターとともにチームを成長させられる一員になりたいとか、自分なりのプロ選手、プロフェッショナルとは何かみたいなところに関してすごく考えたんです。

 

本当にそこから地に足がついたと思いますし、僕が現役中に企業にインターン研修に行こうと決めたところに繋がりました。インターン研修に行こうと思ったきっかけは、辞めた後のことを考えなきゃいけなくなったときに、何もない自分に気づいたことでした。プロサッカー選手って何かと考えたときに、それを知るためには自分から外に出ないと分からないと思ったんですよ。

 

そしてヴァンフォーレの2年目からインターン研修に通いました。オフに4日間ずつ、最初は中日新聞とアディダスに行って、次は雑誌社とJリーグ、朝日新聞、Jスポーツ、そして最後はリクルートエージェントに行きました。

 

研修に受け入れてくれた会社は、サッカーの周辺の企業や、サッカーを作り出す企業でもあったんで、そういう人たちのもとで自分は選手が出来ているんだと知ることが出来たのはとても大きかったと思います。

 

そして研修に行ってみたら、プロ選手に求められていることや、プロ選手はもっと存在価値を共有出来る場面が作り出せるんじゃないかっていうことに気付かされたんです。

 

インターン研修にはすごく意味があると思いましたし、やればやるほどサッカーを捉える広がりみたいなものが見えました。こういうものを分かった上でプロとして活動したい、選手として生きたい、そこには意味があるってすごく感じました。だからそれが自分の「現役を続けたい」というモチベーションに繋がってたと思います。

 

ただ、インターン研修に参加してる自分の姿を見て、最初はチームメイトから「大事なオフを無駄にしてる」「引退の後のことを考えている人と一緒にプレーしたくない」って言われましたね。「辞めた後のこと考えてるんですよね。そういう人とは一緒にプレー出来ないです」って。あの頃は若手の尖ったやつは必ずどのクラブにも一定数はいましたから(笑)。

 

ただインターンはリフレッシュにもなるし、自分の振り返りも出来るし、かつ新しいモチベーションと言いますか、新しい気付きを持ってサッカーをやれて、そこに意味を見つけ出せたというのはよかったと思います。

 

 「お前みたいな選手は初めて見た」という社長の言葉

当時のヴァンフォーレの社長は海野一幸さんで、入団させてもらったとき「うちはマリノスみたいなところから選手が来たことないから」というようなことを言われたんです。それに対して僕は、僕はもともとマリノスっていう看板じゃないし、戦力外になってこういう思いや感情を抱いたんで、それに取り組みたいという話をしたんですよ。

 

そうしたら海野社長からは「お前みたいな選手は初めて見た」って言われて、「甲府でまだまだやりたいことがいっぱいある。それを一緒にやれないか」って、サッカーに関係ない、いろんな取り組みなんかにも顔を出させてもらったりしました。

 

試合の前日に「甲府の文化を語る」というシンポジウムがあって、そこで音楽をやってる人とかと、いろんな甲府の文化を語るみたいなところに出たりしたんですよ。そうしたら、そういう人たちが試合を見に来てくれてましたね。

 

これは甲府というか小さな町ならではの広がりでした。いろんなメディアの人と一緒に番組の企画を作ったりという積み重ねもやらせてもらったりしましたし。そうしたら、そのシーズンのホーム開幕戦はお客さんが4640人だったんですけど、シーズン最後のホームゲームは8134人だったんです。

 

しかもJ2で5位になって結果もついてきたんですよね。チームが街と共に成長していくみたいな実感を持てました。たった1年だったし、実はヴァンフォーレにいたときは、現役11年間の中で一番給料が極端に低くかったんですけど、過ごさせてもらって本当によかったと思いますね。

 

サポーターの人たちと1つのファミリーとして生きてるという考えにもなって、サッカーというか選手がやれることってまだまだ多いし、選手として生きていく中での広がりをすごい感じました。

 

ただ1年過ぎたところでJ1のサンフレッチェ広島に移籍することになったんですよ。僕の給料は3倍ぐらいになったし、移籍金もヴァンフォーレに満額払ってくれたんで、どっちにとってもよかったんだと思います。

 

そのとき海野社長が当時甲府で一番高いと言われていたフランス料理屋に連れて行ってくれたんです。僕は「みなさんには本当にお世話になりましたし、甲府の人たちにもとてもよくしてもらいました。こんなお店にもお連れてきていただいて恐縮です」とお礼を言ったんです。

 

そうしたら社長は「いや、こんなの全然安いよ。移籍金なしで加入してたくさん残していってくれるんだから。好きなだけ食べていいよ」って言ってくださって。1年しか在籍しなかったんですけど、自分のキャリアにとっても、そして多分甲府にとってもターニングポイントになったときを共有させてもらいました。

 

甲府を離れるのは本当に寂しかったんですけど、でもこれなら胸張って出て行けるって思いましたね。そして次のチームでもしっかり活躍しなきゃないけないとか、これからは広島という土地で何が作り出せるかって、そういうモチベーションがすごく高まりました。そのあと甲府から広島っていう移籍が結構メジャーになって、柏好文とか佐々木翔とか稲垣祥がいるんですけど、僕が先駆けだったと誇ってます(笑)。

 

広島はやっぱりすごくいいチームで、いろんなユースの強化もしっかりしてたんで、すごく勉強になりました。自分としてはなかなか活躍出来なかったんですけど、甲府でやってたようなサポーターの方との繋がりがあった1年でした。

 

そのあと2005年にモンテディオ山形に行って、そこでもちゃんと繋がりを作れたと思います。山形も土地が大好きでした。初めて行ったときは大雪で新幹線が途中で止まっちゃって3時間ぐらい遅れたんですけど、そんな中でもスタッフの方が待っててくださったんです。

 

雪かきしながら生活しましたし、サポーターがグラウンドの雪かきをしてくれるという土地柄でした。雪が融けて春になると街が活気づいたり、温泉があって蕎麦が美味しくて、そういう四季のある生活を楽しめたんです。山形市みたいなところもあれば庄内という地域もあって、鶴岡とか日本海側とか、出羽三山と呼ばれる山が有名なとこだったりとか、そういう土地に生きることが楽しかったですね。

 

それから2006年に巡り巡ってというか名前を変えたベルマーレに帰ってきたんですけど、監督が上田栄治さんだったんですよ。僕がベルマーレ平塚にいた最後の年の1999年も上田監督で、途中で交代したんです。選手としては自分たちが監督に責任を負わせたみたいな気がしてて。それでまた上田監督で、何か巡り合わせってあるんだなぁって。結局、その2006年も上田監督が途中で辞任されたんですけどね。本当に申し訳なかったです。

 

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燃え尽きるまで現役を続けるべきか?

30歳を超えたぐらいから「自分はいつ辞めるんだろう」と考えてました。カテゴリーを落としても燃え尽きるまで現役を続けるという風潮も当時からありましたし、サッカーをやる場所を探し続けるという生き方もあるとは思っていました。

 

でも「今もらってる年俸の半分でもいいからチームに残りたい」って、僕はちょっと違うと思ってたんです。自分がもらっている年俸よりもいい働きを見せないと選手としての存在意義を見出せないし、だったらこれから上を目ざそうという人たちに、その貴重な一枠を譲るべきだと考えたんです。

 

そういうことを意識しながら必死にやってて、自分の出来ることをやりきったと感じられたら辞められるんじゃないかと思ってたんですよ。33歳になった2007年も、いただいてる年俸以上の価値を示せるようにやろうと思ってました。そしてシンプルに「やりきった」っていう思いになって引退したんです。

 

ただ、辞めて何をしようかというのは考えてなかったですね。インターン研修に行ってたんで引退後の仕事を何か考えていたんじゃないかと見られるんですけど、僕自身はいろんな会社の仕事を知れば知るほど、選手は選手としての仕事を全うするしかないと思いましたし、自分がやりきったと思って自分で判断をして辞めるという状態になることがとても大事だと思ってました。

 

戦力外になったときに監督のせいにしたり、年俸が高いから切られたり、そういうやってきたことに対して否定的になって辞めるのはダメだと思ってましたから。サッカーというとても大切なものと出会って、この先もサッカーに関わって生きたいと思っている自分の人生にとって、選手というとてつもなく希有な場所にいさせてもらったことに対する感謝を持っていたかったし、否定的になる状態にはしちゃいけないって思ったんです。

 

だからサッカー選手のときは「サッカー選手であることを追求し続ける」ことにこだわって、引退後のことは、辞めるっていう状態をちゃんと作り出してから初めて考えようと思ってたんです。

 

なので本当に引退するって決めたのは、引退を発表した2007年11月25日のホーム最終戦の前日です。当時のベルマーレの試合前日のトレーニングでは、スタメン組が先に帰ったあと、「ベンチメンバーを決めるミニゲーム」というのをやってたんですよ。僕はスタメンじゃなかったんでミニゲームでバチバチやって、そこからクラブハウスに戻ったんです。

 

クラブハウスに戻ったとき、ミーティングルームのホワイトボードに名前が書いてあったらベンチメンバー入りなんです。歩きながら「ここで名前が書いてあったら引退しよう」って決めました。

 

何か、最初は書いてあってほしくないって思いだったんです。しかもその1試合前はベンチ入りしてなかったし。そうしたら名前があって、なんかすごくすっきりして。そのまま真壁潔社長のところに行って「実は今シーズン限りで引退します」って話して、菅野将晃監督にも「明日引退します」と話をして。「他の選手にも言わないでください」ってお願いもしました。

 

真壁社長は「お前は選手会長だから、ホーム最終戦セレモニーで選手会長として来場者に挨拶した後にしっかりサポーターに伝えたらいいんじゃないか」って話をしてくれて、それで最後にスピーチをさせていただきました。

 

プロ選手としてのあるべき姿を自分の中で追求してって、それが人から見てどうだったか分からないですけど、でもそこも含めて、あれが僕にとっての限界だったような気がします。

 

実はちょっと裏話がありまして。当時、試合を放送してくれた「スカパー!」、たしか「J SPORTS」だったと思うんですけど、その引退の挨拶の途中で放送を終わるわけにはいかなかったんで放送時間が延びちゃって、クラブはすごい怒られたみたいです。「引退のコメントをするんだったら、ちゃんと先に言ってくれ」みたいな。怒られたってことをクラブは僕に黙っててくれたんですけど、自らがそのJリーグ中継を担うスカパー!の人間になったときに、完全生中継の放送予定時間が伸びるキッカケになったと教えてもらいました(笑)。

 

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Jリーガーから電通マンへ…一番下からスタート

現役生活は本当に精一杯やってたという思いもあったんで、よく「まだ出来たんじゃないか」と言われるんですけど、僕の中ではとてもいい決断だったと思います。あの決心が出来たから、その後のキャリアとても前向きに、かつ自分の思いに沿った形で進めてこられたと思ってますし。

 

引退して1週間ぐらいですかね、本当に真っ白になって、1週間ぐらいボーッとしてました。なんか「本当に引退しちゃった」っていう感じになって、何にもね、本当に何もないなみたいな感じを3日ぐらい過ごしてたんです。

 

けど、やっぱり来たんですよ。ふつふつと。「これからはこういうことしたい」という思いが。まず自分がいろんなことを知らないといけないから、一度ちゃんと外に出ようっていう気になりました。一般企業に入って、本当に社会の中にサッカーがあるっていうことを実感したいと思ったんです。

 

サッカー界の真ん中でやらせてもらってきたんで、一番外側を感じるような、そういう場所に行きたいっていうモチベーションがガガガっと来て、それで電通に入れていただくことになったんです。

 

電通にはインターンでも行かせていただいてたんですけど、研修に行くまでどんな企業なのか全くイメージがなかったんですよ。電通の大きさも分かってなかったし、代理店がどういう業務なのかというイメージもなくて。それが研修に行ったら、とてつもなく大きなことを動かしてて、なんか逆にサッカーの現場はある意味で小さいものであることが分かりました。

 

そしてサッカーとサッカーの現場はとても小さいんだけど、そこからこれだけの広がりを作り出せているんだって感じて、「これはとても面白いな」って。ビジネスマンのトップランナーの人たちが集まって、営業だけじゃなくて内勤とかクリエーティブの人たちも含めていろんなものを作り出す集合体なんだなと。

 

今の世の中を表現するのに大きく関わっている企業だって感じてました。それにシンプルに言えば、電通はインターン研修に行った先の中で一番いろんなことをやってたというのもありました。今までの立ち位置から一番遠いところに行って自分の幅を作れる場所という意味では、電通がそういうイメージだと思えたんです。

 

僕がインターンに行ってたのは「サッカー事業室」っていうところで、そこで知り合った人たちから「営業が人を探してる。それも日本サッカー協会のスポンサー企業を担当するんで、ちゃんとサッカーのマインドを持ってる人がほしい。ただのビジネスマンよりも、出来るだけサッカーのマインドがある強いヤツがいい。そういう人物をチームの一員にしたいと考えてる」という話を教えてもらったんですよ。

 

確かにいい話で自分に合ってると思ったんですけど、ビジネスマンというスキルは何もないから、それでも大丈夫だろうかっていうのはすごく感じてました。実際、面接に行ったら今の電通の代表取締役兼CEOの山本敏博さんが当時その営業の局長としていらして、やっぱり「サッカーしか知らないですよね」という話になったんです。

 

そこで「いろんなクラブに行って、選手だけじゃなくてスタッフとかサポーターとか、地域の人たちと関わりを持って、サッカーが夢を広げるっていう力を意識してやってきた」と言いました。そうしたらすごく共感をしてくださって、「すぐには活躍が出来ないだろうけれども、成長幅も含めて、じゃあ」って選んでもらったんです。

 

それで33歳で電通に入ったんですけど、山本さんから「新入社員として21歳と同じ扱いにする」「他の人全員からそういうものとして扱われるし、全員に敬語を使って、本当に一番下からスタートしなさい」と言われたんです。

 

どういうことかよく分かってなかったんですけど「分かりました」って言うしかなくて。そしたら要は先輩とか部長とか、みんなめちゃくちゃ厳しいわけですよ。明らかに若手の人とか、サッカーをやってて僕のこと知ってる人もいるんですけど、それそういう人たちにも僕はとにかく敬語を使って過ごしてました。

 

入社前にパソコン教室へ3週間ぐらい通ってたんですけど、当然最初からうまくいくわけないんで、送っちゃいけない添付ファイルをクライアントに送ってしまったりしたときは「お前は1週間パソコンに絶対触るな!そこに立ってろ!!」みたいな感じで言われたりしました。1、2年先輩の人たちからはめちゃくちゃ厳しく言われて「ここはこういう世界なのか」と思いながらやってましたね。

 

「ここにいる全員のオーダーを聞いて、下のマクドナルドで買ってこい」とか普通にやってました。買ってきたら「ピクルス抜きって言ってたのに入ってるけど、これどういうこと?」とすごい詰められて、「すみません」と謝ったんですけど、それってイタズラなんですよ。そうやってからかわれてました。

 

電通にはサッカー部があって、「サッカーでしか貢献出来ないんだから」って言われて入ったんです。そうしたら僕が大学4年生のときの1年生だった後輩がキャプテンをやってて、「外池さん、聞いてます。でもサッカー部でも1年生扱いだからグラウンド整備からやってください。飲み会ではちゃんと出し物もやってください」って言われて、そういうのを全部やってました。

 

中途採用ではありますけどサラリーマンを本当にゼロベースから、サッカーで言うとリフティングが1、2回しか出来ない状態からうまくなっていく過程を、一つの場として与えていただいたっていう感じでしたね。それを丸々1年やりました。

 

1年経ったとき、「お前は今日から12年目な」って言われたんです。そうしたら逆に僕に敬語を使ってくれる人が出てきたりしました。社員教育はしんどかったことも結構あるんですけど、やっぱりそこでもう一回立ち返れたっていうか。

 

あの1年がなかったら今はないってすごい思いますね。あそこでちゃんと基本の「き」を叩き込んでもらって、その1年でしっかりスイッチを入れられました。

 

それにみんな僕が1年間やっていたのを見てくれてたからこそ、仲間に入れてくれたんですよ。他の人は多分、4、5年はそういう大変な時間を過ごしてきてるんです。

 

そこに途中入社して、いいとこ取りして何かちょっとチヤホヤされながら、そんなに苦しいことじゃなくて、出来ることだけをやって過ごしてたら、多分僕はその後仕事なんか出来なかったと思いますね。

 

だから僕をちゃんと見極めてもらった上で、クライアントに信用される、ちゃんとクライアントに気遣い、配慮とかサービスが提供出来るようにしてくれたと思います。

 

せっかく持ってる武器を生かすためにもゼロからスタートしないとダメなんだって分かったというか、そういうメッセージを自分も感じてたし、周りもそう感じ取ってくれたからその後がありますね。だから今でも当然その当時の人たちと関わりがあります。

 

電通からスカパー!、そして早稲田大学監督に

電通には5年間務めました。3年目ぐらいからは仕事らしい仕事をして、4、5年目ぐらいにはいろんなプロジェクトを回せるようにはなってきたんです。でも当然電通の中にはスペシャリストがいっぱいいますし、改めてそこでキャリアを積む、電通に残ることが、本当に自分が引退したときに思っていた「選手というキャリアからどう広げていくか」に繋がるか考えたんです。

 

「電通の人間」になるのもよかったかもしれないんですけども、自分の人生という軸から捉えたときに、サッカー選手をやってた人がどう生きていくかっていう1つのストーリーの中に身を置くことが使命だと思ってるんですよ。だから組織の1つの歯車になるんじゃなくて、自分の中で問題意識が生まれてるんであれば、そっちに行くべきかなと思って。

 

Jリーグチームの指導者を目ざすという道もあったかもしれないんですけど、僕には天の邪鬼なところもあって。長くJリーガーをやった人ほど引退の翌々日ぐらいに「コーチ就任」みたいなリリースが出てくることに、すごく違和感があったんです。翌々日にリリースってことは、違う職業になるのが現役の間に決まってたわけじゃないですか。

 

それってちゃんとセカンドキャリアに向き合ってないみたいと僕はすごく感じてたんです。そういうサッカー界の主流に対して問題提起していくのが1つの生きがいというか、僕のポジショニングかなっていう思いもあって次の職場を探しました。

 

当時、サッカーという産業を盛り上げる担い手はメディアとスポンサーだってすごく実感してたんです。そして、企業としてその2つの役割を担っていたのが「スカパー!」でした。Jリーグのスポンサーでありながらメディアっていう立場でしたから。

 

これは代理店にいる以上に1歩踏み込めるし、その立ち位置を担うことは選手のキャリアの積み方としては大事だと思ったんです。偶然、僕を採用してくれた方が「スカパー!」に出向した経験もあったので、その人に「『スカパー!』に行かせてくれないか」とお願いしたんです。

 

「分かった」って言ってもらったんですけど、「ちょっと時間はかかるよ」っていうことでした。そうしたら「スカパー!」の中でも一番ど真ん中の「Jリーグ推進部」っていうところに席を作っていただいて、そこに入っていけたんです。

 

ただその後、Jリーグ中継の中心が「スカパー!」からDAZNに変わって、「こうやって時代って変わるんだ」というのを感じました。「スカパー!」は何も悪いことをしてないし、「スカパー!」みたいな会社はなかなか出てこないと思うんですけど、変えていかなきゃいけないときが来てるんだろうと思いましたね。

 

逆にそういうときに何が出来るかが重要だと思ったんで、モチベーションを高めてました。「ここでサッカー放送を止めないのが『スカパー!』じゃないですか!」って言いながら仕事をしてました。

 

それで、Jリーグは撮れないけど、育成年代やJリーグじゃない周辺をもっと支えようみたいな、お金にならないところに形を作るっていうことをやったんです。その1つが大学サッカー部を取り上げるという番組でした。

 

そのときいくつかの大学を取材したんです。そうしたら、Jリーグを頂点としたサッカー界のピラミッドの中に大学サッカーかなり取り込まれてしまってて、サッカー専門学校みたいになってたんです。それで「あれ? これなんか違うんじゃないか?」って。

 

サッカーの評価がより強くなってて、サッカーがうまい選手には誰も何も言えないみたいな空気があったんですよ。でも大学ってそういう場所じゃないよって。サッカーの道に行かない人たちも、サッカーでやっていたことを転換して生かしていけるようにすることに魅力があるんです。

 

それに僕の大学時代もそうでしたけど、結局サッカーの道に行かなかったという人たちにパワーがあるかどうかはすごく大事なんですけど、そこはとてつもなく弱ってるという感じがしました。それにサッカー以外の道を選ぶ選手の存在が、選手を目指す人間のいろんな肉づけになってくるから、そういう環境作りが必要だとすごく思ったんです。

 

そうしているときに、早稲田大学サッカー部監督の話が来たんですよ。大学の監督ってコーチライセンスがいらないんです。大学サッカーの歴史は当然Jリーグより長いからだったり、教育機関だったりといういろんな側面があって。でもとても重要な役割を担っているし、日本の中の空洞化された世代というか、一番強化しなきゃいけないところなんです。

 

高校を卒業してJクラブに入れなかった人たちが大学に流れてくるような傾向もありましたし、そういうメンバーが4年間かけて何かを身に付けたら、日本のサッカーを変えていくんじゃないかと思いました。出来上がって整ってしまったピラミッドの中で、大学サッカーは一石を投じられるんじゃないかっていう可能性を感じたんです。

 

Jリーグの指導者になろうとすると、現役時代からのラインが出来上がってて自分にはすぐには難しいと思ってたし、大学を取材してて「僕たちの時代からちょっと変わった」と思いつつ、でも意外と大学という文化や良さは、今こそあるんじゃないかと感じたんです。

 

だから早稲田の監督という話があったときに「これは絶対おもしろいし、大学だからこそ、勝った、負けただけじゃなくて、もっと文化だったり、何か1つのビジョンを一緒に作り上げていくところから出来る」と思ったんですよ。

 

Jの指導者では出来ないことがここだったら出来るだろうし、ここの人材が社会にどう出るかは社会に影響を及ぼすと思ってたんです。いろんなパワーやエネルギーは社会に転がってて、勝手に自分で狭めないで、この中で書き加えようって。

 

どこかで頭打ちになったり、どこかで苦しんでもトライアンドエラー出来るのが大学だし、そういう仲間たちをいっぱい作り出せる環境だと思ってます。そういう意味では早稲田ということだけじゃなくて、大学スポーツを一つの広がりとして、ちゃんとみんなで共有しながらやってます。

 

「早稲田だけ勝てばいい」みたいなことは思わないですし、業界がちゃんと盛り上がっていかないと価値が認識しづらくなってくるし、「早稲田、頑張ってるね」とか、それだけの話になってしまうから。早稲田や慶應や筑波がそういうことをしっかり示していけば、サッカー界に何か一つ新しい風を吹き込めるじゃないかという思いがありました。

 

大学生は社会に価値を示せるんだということに取り組むのは、一つの早稲田らしさと定義出来ると思いますし、そのために自分のメディア経験だったりブランディング経験も含めて落とし込んでいこうと思ってます。そしてそういう価値を見せることは、これからサッカーで生きていくためにも必要な力だと思います。

 

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監督に文句言う選手が出てきたときはうれしかった

今のサッカー界がやっているのとは違うアプローチをやる、そこにはこだわらなきゃいけないってすごく思ってます。今のサッカー界がやっていない方法で、それ以上を作り出すというか、空気を乱すとか。

 

勝ち負けも当然大事ですけど、「意外ともっと広いところから勝ち負けって導けるよ」、みたいなことをやってるんですよ。そもそもやりがいとか評価って能力だけで切られてたら意味ないよねって思ってますから。だから僕は指導者じゃないんですよね。役割をマネジメントとして捉え、立ち位置はファシリテーターですね。

 

「こうしなさい」「こうしろ」という話は基本的に一切なくて、出来るだけ学生たちに、メンバー選考から練習メニューから、チームのマネジメントも含めて預けるようにして、僕はもうひたすら見守り、壁打ちしているだけです。

 

大学の中でもいろんなチームあって、本当に実力主義的なJリーグの下部組織みたいなところもありますけど、でも我々は今を生きる若者たちと作り上げるっていうことにこだわってます。そこにめちゃくちゃやりがいを感じますし、すごく学びにもなりますから。

 

人間性っていうのは、たとえば挨拶が出来るとか、行動がしっかりしてるとかいうだけじゃなくて、ちゃんと主体的に捉えられているか、責任やアイディアを示せているか、ちゃんと社会を見渡せているかとか、そっちが基準だと思うんです。だから僕は大学生が主体性を持って、監督にも文句言う選手が出てきたとき、結構うれしかったりしたんですよ。

 

一昨年、チームがうまくいってなかったとき、練習終わりに3年生が手を挙げて「今チームの状態があまりよくないです。こういうときに足りてないのはだいたいベース部分だと思います。挨拶とか、集合ときにすぐ集まるとか、そういうことをちゃんとやりましょう」って言うんですよ。

 

僕はチームメイトに向かって言ってると思ったら、「この中で一番挨拶をしないのは監督の外池さんです。以上です」って言ってミーティングが終わっちゃったんです。みんな、めっちゃザワザワして。

 

その夜にその選手に電話して「結構挨拶してると思うんだよね」って聞いたら、「外池さんはすごくフランクだし、みんなともすごいよく喋るし、近い存在で、そこに関しては何もないです。でも、外池さんがグラウンドに来るとき、6、70人から挨拶されますよね」

 

「それに対してみんな集めてとりあえず一言、『おはよう』としか挨拶しません。それって足りないと思うんですよ。60人から挨拶されたら、60回、目を見て返すべきだと思います。そういうことが言いたかったんです」って言われて、「なるほど」と思って。

 

次の日にみんな集めて「昨日のことはこうで、確かにもっともだと思う。申し訳なかった。ちゃんと挨拶するからみんなもちゃんと目を見て挨拶しよう」って話をしたんです。そうしたらチームがすごくよくなって、降格しそうだったんですけど残留出来たんです。

 

僕自身もそうやって自身が問われる中にいて、彼の主体性をちゃんと引き出せて、それをまたみんなで共有する場作りが出来たっていう意味では、とてもいい場面だったと思ってるんです。だからこういうことなら何度でも起こってほしいと思ってます。

 

学生は僕たちが想像しないようなことを考えてたり、今の社会に対して迎合しているようで批判的だったりするんです。無記名でアンケートを取るとみんな結構辛辣なことを書いてくるんですけど、そういうのって実は重要なパワーだったりするじゃないですか。

 

チームを動かしたり個人を駆り立てるとても大事なパワーが、何かに忖度したり、どっちかを向かなきゃいけないようになってたら失われるんですよ。これからを作る若者たちが自分を発揮出来ない社会とか、そういう空気になっちゃうんで。彼らから何か引き出しながら、自分もそこに触発されて成長していきたいなって。

 

今の夢ですか? 夢……引退したときに最初に思い浮かんだのが、「Jリーグのチェアマンになりたい」だったんです。まず自分の幅を広げることが大事だと思ってて、そういう中でサッカーに関わるのだったら、チェアマンというポジションじゃないかなって思ったんですよ。別に野心的に思ってたわけじゃなくて、それこそ天邪鬼じゃないですけど、トップを極めたい人たちの対抗馬みたいなところに位置したいな、と。

 

僕はJリーグに、特にサポーターの方々に、とても育ててもらったと思ってるんで感謝しかないです。けれどちゃんとバランス感覚を持って良くしていくためには、否定的な部分を持ってなきゃいけないし、そういうチェアマンになれないかなって。今の村井満チェアマンはバランスがとてもいいと感じますし、だからこそ、次の展開にも必要な視座と実装を回せるようになりたいです。

 

もし「スカパー!」が忙しかったら、もしJリーグがまだ「スカパー!」でやってたら、今の僕はないですね。そういう意味では、ちょうど大学サッカーの情報もある本当にいいタイミングに大学監督の話が舞い込んできて、今年で4年目になるんですけど、やらせてもらってるって思います。

 

だから次のステージをちゃんと自分で見つけ出さなきゃいけないって逆に思います。楽しいし、成長しているという実感もあるが故に、これをまた次に進むための力にしなきゃいけないと思います。

 

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昔から味噌バターラーメンをよく食べてます

最後、食べ物の話なんですよね? 噂に聞いてます。

 

じゃあ練習場がある東伏見の店を紹介しておきましょう。僕が打ち合わせみたいなことで使ってる「サウスカフェ」っていう、名前のちょっとかっこいい店が東伏見のアイススケート場の横にあるんですよ。

 

そこは学生たちも結構食べてます。ちょっとしたテラス席みたいのがあって、来客があったり、人にいろいろ相談みたいにするときに行ったりしてますね。そこが今のいろんな発想から何か作り上げたりする場所で、気兼ねなく、時間も問わずいられるところなので、結構大学っぽい場所というか。大学の敷地じゃないんですけど。

 

学生と話すときもそこに行くんですよ。大学内で話をすると部活の空気になっちゃうんで。それから他の部と連携することが結構好きというか、それも大学スポーツの面白さと強みだと思ってて、ラグビー部、応援部、アメフト部、野球部とミーティングするときにも行ってます。オススメは、何の変哲もないんですけどオムライスとサラダとアイスコーヒーのセットですね。量がすごく多いので学生向きです。

 

それから東伏見には「ラーメン専門味一(あじいち)」っていうラーメン屋さんがあって、そこはときどき部内でミニサッカー大会の「味一カップ」をやるときに協賛してくれてます。優勝したらその6、7人のチームは「味一」さんでラーメンが食べらるんです。いい大会です(笑)。

 

今は駅のロータリーの北側にあるんですけど、元々は練習場のすぐ近くにあったんですよ。僕が現役のときには横断歩道を渡ってすぐのところに店があって、試合の30分前に「味一」で食べてるヤツがいたくらいでした(笑)。

 

こってりとした煮干しラーメンですね。結構こってりとしてるんですけど、昔から味噌バターラーメンをよく食べてます。一度店を閉めて、駅の北側で再開したときにはメインが別のメニューになったのですが、一時閉店前の昔ながらのラーメンも残してくれたんです。

 

最近の学生たちはこのメニューをあまり食べないんです。でも僕はやっぱり味噌バターラーメンを食べますね。僕の当時は親父さんがやってたんですけど、今は息子さんがやってます。どうか食べていってくださいね。

 

紹介したお店 

ラーメン専門味一
〒202-0014 東京都西東京市富士町4-17-7 片井木ビル1F

 

Photos by 神山陽平/Backdrop

 

外池大亮 プロフィール

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早稲田大学を経て1997年、ベルマーレ平塚に入団。その後、横浜F・マリノスやヴァンフォーレ甲府などを渡り歩き2007年に引退。引退後は電通、スカパー!での会社員生活を経て、2018年より早稲田大学ア式蹴球部の監督に就任した。1975年生まれ、東京都出身。

 

著者プロフィール

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

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Source: ぐるなび みんなのごはん
大学はサッカー専門学校ではない…Jリーガーから電通、スカパー!を経て早稲田大学監督になった外池大亮の夢【ごはん、ときどきサッカー】

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