あのとき自分は終わったなと思った…ハーフナー・マイクが語るサッカー人生の選択ミス【ごはん、ときどきサッカー】

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大型FWでありテクニシャン

少年時代から注目され続けた選手は

プロ4年目で人生の岐路に立った

そしてそこから逞しく羽ばたき始める

 

ヨーロッパでの経験を積んで

日本に帰ってきて思い出のクラブに再入団

そこで現役を終えるかと思われたがまだ火は消えていなかった

そんなハーフナー・マイクの大好きなメニューは何か

 

「ハーフナー・ディドの息子」と書かれるのがすごくイヤだった

これまでのサッカー人生で一番苦しかったのは……そうですね。やっぱりプロ4年目の最初の半年ぐらいですね。

 

コンサドーレ札幌U-15に所属していたとき、中学校3年生で高円宮杯に準優勝したんです。高校に上がってからは横浜F・マリノスのユースに入って、そのカテゴリーでは活躍してました。

 

そして2006年にユースからトップチームに昇格したんですがなかなかゴールが奪えず、20歳だった3年目の2008年にJ2のアビスパ福岡に期限付移籍したんです。

 

アビスパはいろいろ経験を持っていた選手が多かったんですよ。布部陽功さん、久藤清一さん、久永辰徳さんとか。そういう方々がいっぱいいたので学ぶことも多かったんです。最初の半年はケガだったんですけど、あとはコンスタントに試合に出て、7点取ってある程度自信を持ってF・マリノスに戻ったんですよ。

 

でも帰ったら空回りも多く、試合に出られないことが続いたんです。思ったように試合にも絡めないまま、プロ4年目なのにまだちゃんとした結果がない。F・マリノスでは無得点っていう状況だったんです。そこは辛かったですね。

 

そして2009年にはシーズン途中にまた期限付移籍でJ2のサガン鳥栖に行くことになったんです。そのとき「ここでうまくいかなかったら、もうプロとしてやっていけないだろう」っていう覚悟がありました。

 

それまでずっと小さいときからサッカーをやってきてたんで、いざ「サッカーを辞める」って考えたら、心にすごくぽっかり穴が開くだろうなっていう思いがあったんです。だからやっぱりいろいろ覚悟はありました。

 

あの当時の鳥栖は今の規模とは全然違ってましたね。シャワーが外に置いてある仮設だったり、毎日の練習で使うグラウンドも転々としてましたし。公園の坂になってるグラウンドで練習してたりしたんです。

 

住んでいたのは鳥栖の寮でした。1階だったから大きな蜘蛛とか結構いろんな虫が出てましたね。でも、虫と戦ってから休めるという、そういうのも面白かったですよ。そのときにチームメートがそのあと川崎フロンターレに行ったりした武岡優斗とかいて、結構楽しかったですし。

 

そして鳥栖に行ったら岸野靖之監督との出会いがあったんですよ。岸野監督のおかげでいろいろ心の中が変わりましたね。それまでよりサッカーに対しての必死さとか、向上心とかが増したと思います。それにスタジアムは今も変わらずすごくいいスタジアムですし。そしてそこから自分が選手としても爆発できたと思います。

 

ちっちゃい頃から、プロに上がる前からずっとギラギラしてて、気持ちが先走ってたんです。今ももちろんギラギラというのはまだ全然あるんですけど、もうちょっと大人になって落ち着いてきたとは思います。

 

でも、あのころはやっぱり結果を出さなきゃいけなくて、その努力が一番プラスに働いたのは鳥栖のときでした。

 

リーグ戦に33試合出場して15点取ったんです。あのときにしっかり結果を残せたのが個人的には最初のブレイクスルーというか。本当に乗りに乗ってたし、GKからのボールをボレーで決めたりしたこともあって。懐かしいですね。

 

サッカーを辞めるかどうかっていう狭間に立ったときに、岸野さんに会えたことも自分は本当、運が良かったっていうのは今でもあります。

 

ところがその2009年で岸野監督が退任するということになったんですよ。僕としてもJ2で自信を付けたからまたJ1に挑戦しようと思っていました。そういうときに勝点1の差でJ1昇格を逃していて、自分にプラスになるクラブだと思ったJ2のヴァンフォーレ甲府から声がかかったんです。

 

そして2010年は20点取ってJ2の得点王になりました。チームも36試合のうち4敗しかしなかったと思います。クラブとしても個人としても思惑どおりだったんですよ。それでも2位でしたね。36試合で2敗しかしなかった柏レイソルが1位でした。

 

それで2011年のシーズンがスタートしたんですけど、昇格させた内田一夫監督から三浦俊也監督に代わって、選手も昇格したときのチームメイトがいなくなって。2010年のチームのまま戦っていたらどうなったんだろうというのは今でも思います。レイソルは昇格してそのまま優勝して、僕たちは1年で降格してっていうのは、やっぱり残念でした。

 

2011年で甲府を辞めることになり、いくつか他のチームからオファーが来てたんです。そのときヨーロッパに行く最初のステップとしてオランダに行ったほうがいいのかと思ったのでフィテッセに決めました。

 

父親の母国ということではなかったんです。父のハーフナー・ディド(※)のことはなるべく考えないようにしていました。

 

※ハーフナー・ディド:オランダ出身・現日本国籍、ポジションはGK。デン・ハーグ(オランダ)、マツダ、読売クラブ、名古屋グランパスエイト、ジュビロ磐田、コンサドーレ札幌で活躍。1993年には1994年アメリカワールドカップを目ざしていたハンス・オフト監督率いる日本代表のGKコーチも務めた。引退後は札幌や横浜FM、名古屋、清水エスパルスのコーチを歴任した。

 

やっぱり、小学校から高校まで僕の名前が新聞の記事に載ったときは絶対「ハーフナー・ディドの息子」って書いてあって、それが個人的にはすごくイヤだったんです。父よりも自分の名前が先に出てほしいとずっと思ってて。

 

自分がプロになって、活躍して日本代表まで行ったとき、やっと自分の名前から記事が始まることが多くなって、個人的によかったと思いました。

 

父からGKというポジションは全く勧められなかったですね。どっちかというと父といてFWになったという部分もあって。

 

小さいときから夏休みに父の練習に付いていって、練習が終わった後、そのままグラウンドでボール蹴ったりしてたんです。父がゴールに入って自分が蹴り込んだりして。そのとき、点取ることが楽しいって思ってたんで、やっぱり自分はFWになったんだと思います。

 

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移籍の選択ミスがなければ全然違うサッカー人生だったかもしれない

フィテッセに入った2012年は、最初の半年間ほぼ途中出場が多かったかな。ワントップにえぐい選手がいたんで(笑)。2014年ブラジルワールドカップの日本戦でも点を取ったコートジボワール代表のウィルフリード・ボニーです。

 

2013年にボニーは31試合で30点取ってオランダのリーグ得点王になって、ウェールズのスウォンジーに移籍して、2015年にはマンチェスター・シティに行きましたからね。すごい選手と一緒にやってたんだと思います。

 

その2013年は監督が代わって、最初のミーティングで「お前はFWじゃなく違う場所で使いたい」って言われたんですよ。そして主にトップ下で出ることが多かったんですけど、サイドハーフだったりボランチまでやりました。でも、スタメンで出来る機会も多くなって2桁アシストしたんです。そのときに「ヨーロッパでもやっていける」という気持になりました。

 

オランダリーグを2年半経験して、フェイエノールトからオファーが来たんです。けれど自分の頑固な部分があって「もう次のステップに行きたい」と思ったんです。それでスペインのコルドバに行きました。

 

それが個人的には選択ミスだった感じになりましたね。他もいろいろ選択肢があった中で、なんでそんな残留ギリギリのチームに行ったのかというところです。

 

最初の5試合だけ試合に出たんですけど、その後使われなくなってしまいました。行ったのはいいのですが、サッカー以外のところでバタバタしちゃったんですよ。そこでケチがついたというか。

 

ヨーロッパの移籍は準備だけでも大変でしたね。ビザを取るのにいろいろ書類を出したんですけど、書類が足りなくて出し直しになったり。無犯罪証明書と健康診断書を追加で出さなければいけないということになり、その証明書だけで発行まで2週間かかったりするんです。

 

その待っている間にチームが始動してしまったりしたり、そのときにクラブから「韓国からいいオファーが来てるけどどうする?」っていうメールが来たりとか。そこが2回目の壁っていうか、プロサッカー選手になってからそこが2つ目の苦労だったなと思います。

 

辛かったですよ。でもその時思ったのは、実力のある選手だったら、どんな場面でもどんな監督でも使われるだろうってことです。やっぱり自分は実力が足りなかったんだなって思いました。自分の選択に対して言い訳はしたくないんで。

 

それに、移籍にはそういう難しいことがあるっていうのは、行ってみなきゃ分からないじゃないですか。だからコルドバは残念でしたけど、仕方がないです。

 

結局チームは最下位でその年またセグンダ(2部)に落ちました。それで2015年はどうしようかとバタバタしている間に、移籍マーケット中に移籍できるところが結局なくなって。

 

フェイエノールトからももう一度オファーが来たんですけどちょうど日本に帰ってるときだったので話が流れて、それでそこから移籍できる先ということでフィンランドのヘルシンキに行くことになったんです。

 

それでとりあえずフィンランドで半年プレーして、それからまたオランダに戻り、デン・ハーグでプレーしました。オランダに帰ることを考えたら、フェイエノールトからのオファーはもったいなかったです。また全然違うサッカー人生を歩んでたかもしれないと思いますよ。

 

デン・ハーグで2シーズンプレーして、リーグ戦25ゴールだったんですけど、できればもうちょっといい結果が出ればよかったと思います。それで日本に帰国する決断をして2017年にヴィッセル神戸に入ったんです。

 

神戸ではなかなか出場機会がなかったのですね。そして2018年にJ1のベガルタ仙台、2019年にタイのバンコク・ユナイテッド、2020年にはJ2の甲府に戻りました。

 

ただ、ヨーロッパのサッカーに慣れて日本に戻ってくるとやっぱりまた違うサッカーですから、そこは難しいんです。オランダに比べると日本のほうがよく動きますね。あとはFWからの守備は日本のほうが求められます。

 

オランダだったら、はっきりとどちらかのセンターバックのマークに付いたり、プレッシャーをかけたりするんです。けれど日本ではFWからもっとガンガン相手のDFのチェックに行く感じです。個人的にはそこが日本に帰ってきてあまりうまく順応できなかった部分だという感じがありました。

 

それに今って、トレーニングのときに背中にGPSを付けて走行距離やスプリント数を測るじゃないですか。そこで出てきたデータで比べられるんです。自分はやっぱり足も速くないしスプリント数も多くないし、たくさん動く方でも無いんですよ。数字になって出てくると、それで物足りないという感じが出てくるのかもしれないと思います。でも結局実力があれば、どんな監督でも使われる。やっぱり個人的な実力が足りなかったんですよ。

 

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自分がもう本当いいやって思うところまではやりたい

2011年には日本代表に選ばれて、2016年までに18試合でプレーしたんですが、特に2011年、2014年ブラジルワールドカップアジア3次予選、平壌でやった北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)戦がすごい経験でしたね。

 

0-1で負けたんですけど、僕がアシストして同点に追いついたと思ったんですよ。ですけど、僕だったか僕が出したパスの先の選手がオフサイドだったということで、ゴールが取り消しになってしまいました。

 

試合の後、帰りが怖かったですね。バスがスタジアムを出るときにみんな石投げてきたんですよ。窓ガラスが割れるんじゃないかっていうくらいの勢いで。あれはあまり経験できないですね。

 

あのとき、逆に勝ってたらどうなったんだろうと思いました。試合も異様な雰囲気でしたね。日本がボール持ったらなんかブーイングでしたし、すごい数の旗を振ってね。

 

もしゴールが決まってれば、その後の代表でのプレーも違ったかもしれないというのはあるかもしれないですけど、自分で運をつかみ取れなかったですね。そういう運ってあると思うんです。出会いも重要ですね。もし岸野さんがあの時鳥栖の監督じゃなかったらどうなったか分からないですし。

 

僕はずっとギラギラしてて、監督と喧嘩したりということもあったんです。自分が思ったことをすぐ口に出しちゃうタイプでもありますから。納得いかないとすぐ態度にも出ますし。そういうのは自分にはマイナスに働いてるのかと思います。

 

ワールドカップもね、細貝萌選手もそうですけど、最後のほうまで選ばれてて落とされるという経験でしたから。ただ、自分が選ばれなくても日本代表は2014年ブラジルワールドカップの前もすごくいいサッカーをしてたから、これはかなりいいところまで行くんじゃないかと期待してたんです。ところが本戦になってうまくいかなくて。自分は出てないのでなんとも言えないですけど。

 

でもそういう日本代表に選ばれてたのも過去のことなので、今は今のことに集中してます。

 

今は東海2部のFC. Bomboneraに所属してます。引退を考え、セカンドキャリアを考えたときに、そのまま指導者という選択肢もあったんです。けれどなんかもうちょっと違うことにもトライしたいっていう思いもあって。

 

そうしたら片桐淳至選手からこの話をいただいたんですよ。東海2部からJリーグを目指そうと活動しているという話でした。個人的には面白い話だなと思ったんです。プレー以外の面でも経験できることがいろいろあるだろうと思ってここに決めました。

 

練習場は転々としてますしシャワーはないですし、そこは社会人リーグなんでしょうがないところですよ。別に家に帰ってからシャワーを浴びればいいんで問題ないです。それに他の社会人チームよりはいい環境だと思います。

 

みんなで切磋琢磨して、Jリーグを目指したいというところではありますけども、今年はコロナの影響でリーグ戦も止まって、一応社会人の全国大会も決めたんですけど、それも中止になっちゃって。

 

2021年は新型コロナウイルスの影響で半分だけ消化して終わった東海2部リーグでしたけど、それでも首位にはなりました。ただ、2022年も東海2部でスタートということになりそうで、そこはやっぱり運ですね。

 

チームとしては結構まとまってきてると思うんですよ。けれど、やっぱり昇格がないと、上のリーグでプレーしたいと思う選手は出てくるんですよ。だからまた新たな選手を獲得もしなきゃいけなかったんです。

 

ただ選手が出て行ったり新しい選手が入ってきたりというのはどのチームもこの時期に経験することです。なので、また2022年に向けていいチーム作りができればいいと思いますし、環境の面でもいろいろ選手が来やすい環境にしていければいいと思います。

 

2022年は東海2部になりそうで、ここから上を目指して東海1部、JFL、Jリーグって目安としては4年ぐらいでJリーグまで上がっていければいいという感じですね。まだまだ現役は続けなきゃいけないです(笑)。正直身体にもこたえてきてるんですけど。

 

元々その体の心配もあって引退って考えてたというのはあるんですけど、でもそれを言い訳にしたくないんで。ある意味、引退を考えていたのを先延ばしにしてるんで、自分がもう本当いいやって思うところまではやりたいと思います。

 

そしてこのFC. Bomboneraは周りの人たちに楽しいって思ってもらえるようなチームにしていきたいです。

 

うちのチームの魅力の一つは、岐阜の親善大使をなさってるMEGARYUのRYUREXさんが顧問で、そのつながりの出会いもたくさんあることですね。このチームが本格的に活動し始めたのは今年なんで、いろいろな人とつながることがこれから大事になってくるから、そういう出会いを楽しみにしてます。僕は楽器やらないんですけどね(笑)。

 

もし今の知識を全て持ったまま過去のある時点に戻れるとしたら……やっぱりスペインに行く前ですかね。

 

あそこからちょっといろいろ狂ったと思うんです。もし戻れるなら、そこかな。行くチームを慎重に選びたいですね。あのとき2つ道があったとして、間違えた道を選んじゃった感じですね。でもスペインに行って経験できたこともあるから。

 

そう言えばスペインって最初の試合相手がレアル・マドリーだったんですよ。8万人ぐらいが入った満員のサンチャゴ・ベルナベウでプレーしたんです。ところがその半年後はフィンランドの500人の前で試合していて、本当自分は終わったなと思いました。

 

でもああいう経験があっていろいろ周りのことは気にしなくなったというか。結局サッカーが好きなんだなって確認できたし、その思いは今でも変わりませんし。環境やどうのこうのは自分の中ではもう関係ないなって。

 

子供のときから好きなサッカーをこうやって続けられてるのがやっぱ個人的にはうれしいんですよ。最終的に「もう僕はサッカーできないや」って思うとこまではやりたいです。

 

つけそばとイカスミのパエリアがおすすめ

レストラン?  レストランですね?

 

山梨のつけそば屋さんで「中華レストランさんぷく」ってとこがあるんです。僕はつけそばが大好きなんですよ。スープが独特な味で、麺は太麺で、スープを絡め取って食べられるんで、もし山梨訪れることがあったら1回食べてみてください。

 

山梨だと普通フルーツを紹介するかもしれないですし、甲州牛とかもあるんですけど、オレは「さんぷく」です。週1回は通ってました。

 

岐阜では玉宮がレストラン街というか居酒屋さん街で、昔の昭和みたいな感じでいいんですよ。何か食べようと思ったら玉宮に行けば間違いないです。

 

僕はその玉宮からちょっと離れたところにあるスペイン料理屋さんでよく行くところがあるんですよ。「バル サビオ」っていう店です。ここのイカスミのパエリアがものすごく美味しいです。ぜひ食べてみてくださいね。

 

マイクさんオススメのお店はこちら

バル サビオ
〒500-8837 岐阜県岐阜市玉森町18-5
2,500円(平均)

 

ハーフナー・マイク プロフィール

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2006年、横浜F・マリノスユースからトップチームへ昇格。福岡、鳥栖、甲府を経て2011年にはオランダのフィテッセへ移籍し、日本代表でも活躍した。その後、スペイン、フィンランド、タイなどを経て現在はFC.Bombonera所属。1987年生まれ、広島県出身。

 

Photos by Miki SANO

 

森雅史プロフィール

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

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Source: ぐるなび みんなのごはん
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