現役時代の青木剛は
無愛想ではないが寡黙な選手だった
ニコニコしているけれども
決して口数は多くない
その人物が今や多くの人と談笑する
もちろん「こだわり」は昔と変わらない
いろいろな経験があったのだろうとうかがわせる
青木にオススメの店を聞いた
鹿島アントラーズで感じたプロの厳しさ
僕は現役時代、正直ずっと苦しかったですね。
2001年に前橋育英高校から鹿島アントラーズに入団して、まずプロの世界が本当に厳しいところだって最初の段階で感じたんですよ。高校のときに出来てたことを全くさせてもらえなかったりして。まずそれが苦しかったです。
それにアントラーズは優勝が義務づけられているチームで、僕が入団する前の2000年に三冠取って、僕が入団した2001年もリーグで優勝はしたんですけど、僕は試合に絡んでなかったんです。
2年目の2002年はヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)の優勝があったんですけど、2007年までリーグ戦では優勝は出来なかったので、そこは苦しみました。
先輩たちは、ピッチ外では怖いなんてことはなかったんですけど、ピッチの中に入るとサッカーへの厳しさを教えてくれましたね。プロとしてやってはいけないプレーなんかをしたときには、本当にはっきりと指摘してくれてましたし、「軽いよ」というのは普通に言われてました。
それに言葉だけじゃなくて、先輩がたの姿勢を通して厳しさを感じてました。「今の自分じゃこのピッチに一緒に立って戦えない」と思わされましたね。
言葉で言ってしまうと「戦う姿勢」とか「勝利へのこだわり」「チームのために戦う」だと思うんです。試合を外から見てても圧倒的だったんですけど、練習だったり紅白戦のときに、また身をもって知らされるというか。自分は全く足りてないというのを感じさせられてました。
「練習は試合のように」って言うじゃないですか。練習で出来ないことは試合でも出来ないって。それを示してくれたのがアントラーズにいた選手の方々だったと思います。
入団当初は秋田豊さんや本田泰人さんがいらっしゃったし、小笠原満男さん、中田浩二さんや曽ヶ端準さんはまだ若かったですけど、それでも日本を代表する選手ばかりだったので本当にいい、日本で一番の環境でした。
本当はそこで先輩たちを追い抜かなきゃいけなかったんですけど、当時の自分はそこまでの志を持てなくて。本当に精一杯の状態で毎日やってたような気がします。
鹿島はC契約とA契約ではロッカールームが違うんですよ。A契約の選手のロッカーは、ついたてがあって1人ひとりの空間が用意されてるんですけど、C契約のほうはベンチが置いてあって仕切りがない作りになってます。
壁一つで分かれてるんですけど、それが何と言うか、大きな壁だというのを感じるというか。C契約からA契約になるためには450分プレー、5試合分出なくちゃいけないわけですけど、そこに結構なハードルが用意されているというか。
それは鹿島ならではと思います。隣のロッカーに行くためには、結果出さなくちゃいけないんだ、試合に出て貢献しなくちゃいけないんだ、って自然と感じられる環境だと思います。
やるべきことをやった上での奇跡の優勝だった2007年
2005年に中田さんがオリンピック・マルセイユに移籍して、2006年には小笠原さんがメッシーナに行ったりして、Jリーグのタイトルから遠ざかってしまっていたので、自分の世代というか、自分が結果を出さなければいけない時期に来てたと思います。だけどそこで次のタイトルを獲るまでに間が空いてしまったので、そこはすごく責任を感じてます。
当時は、やっぱり若くて自分のことしか考えられなかったというか、自分の中でいっぱいいっぱいになってしまってました。本当に自分が「チームのため」というところまで力を出せてたかっていうと、若いときは出来てなかったですね。
鹿島では周りから「チームのために」「勝利のために」とずっと伝えられるんですけど、若いときはそれを自分の中に落とし込めてなかったんです。だから結果につながっていかなかったと今振り返ると思います。若いときでも上位争いをしたけど、最後の最後で優勝に手が届かなかったんです。
それでも2003年あたりから、出場機会が増えていきました。ただ2006年、パウロ・アウトゥオリ監督になったとき、2005年に大卒で入ってきた同じ歳の中後雅喜が使われるようになって、僕は実質的にスタメンじゃなくなって、中後とライバルみたいな関係性になってたんですよ。
そういう状況で2007年にオズワルド・オリヴェイラ監督が就任したんです。開幕戦は野沢拓也さんがケガをして中盤が1枚少なくなったんで出られたと思います。でもそのときの自分の立ち位置としては、一番手じゃなかったんです。
同い年の中後にポジションを奪われてるっていう、複雑な気持ちを抱えながらのスタートだったと思いますね。そして最初なかなか勝てなくて、開幕からリーグ戦5試合ぐらい勝ちなしだったと思います。
オリヴェイラ監督は、まずはモチベーターとして選手の気持ちを上げるのがうまい方でした。あとは戦術的なことで言うと、攻守の切り替えを大事にされていて、そこが生命線の監督だったと思います。
練習もほとんどが攻守の切り替えをさせるための意識付け、落とし込みだったので、それが浸透してきてハマってくれば形になってくると思いました。シーズン最初は勝ちがなかったんですけど、監督も「やり続けていけば、必ず大丈夫だ」とミーティングで毎回言ってて。僕は信じやすいタイプなんで、ブレずにやっていけば結果が出るようになると、なんとなく思ってました。
攻撃は相手を置かずに形を作る「シャドー練習」をやってましたね。後ろから組み立てていって、こういう狙いを持ってやろうというような練習です。守備も意識付けとしてはシンプルでした。攻守の切り替えを生命線として、切り替えを上手く相手に外されたときは、ある程度後ろでブロック作って守ろうっていうようなサッカーだったと思います。
そしてBチームを相手に見立てて練習をするんですけど、「Bチームも強いチームがやっぱり強い」ってよく言われるじゃないですか。あのときは1つのポジションに同じだけの能力がある選手がいたと思います。Bチームにダニーロや遠藤康だったりとか、先発で出てもおかしくない選手がいましたからね。
ダニーロは本山雅志さんと野沢さんがいたし、その年の途中に小笠原さんが帰ってきたので先発じゃなくなったと思います。ただ、ダニーロはワールドクラスの選手でした。
ボールを持ったときのキープ力だったり懐の深さだったり、もうどうやっても取れないっていうようなレベルの選手でしたね。「インターセプト出来る」と思ってもコースに入れてもらえなかったり、絶対取れるタイミングで行っても、難なく抑えられてたし、リーチが長いので最後の最後で足伸ばしてブロックしたりとか、そういうのがすごく印象に残っててます。
運動量とかスピードの弱点が目につくと思いますし、日本サッカーの運動量という部分で、もしかしたら途中出場という役になってたかもしれないですけど、多分あのときのチームメイトはダニーロを高く評価していると思います。
アントラーズからブラジルのコリンチャンスに移籍して2012年クラブワールドカップに出たときに、世界とも対等にやってたのを見て、「やっぱりそういうレベルの選手だよね」と思ってました。
そんな選手がいるBチームを相手のシステムに当てはめて紅白戦をやるんですよ。Bチームに「こういう狙いがあるからこういう意図でプレーしてくれ」「こういう立ち位置にいてくれ」と落とし込んだり、相手の10番役に違う色のビブスを着せて意識付けさせたり。そのときの再現性が高かったですね。忠実に再現出来るだけの能力を持った選手がBチームにいましたから。
それで最終節の1節前の第33節、アウェイで浦和レッズを破り、最終節のホームで清水を下して優勝したんです。懐かしいですね。あのとき首位の浦和に残り9試合で勝ち点差10とすごく差を付けられてたんですよ。
でもオリヴェイラ監督がすごいモチベーターで、ミーティングで時間をかけて選手の気持ちに訴えかけて、僕は暗示をかけられてました。「本当に諦めないこと」「やるべきことをやる」「信じる」って時間をかけて何度も言われていたのでその気になってましたね。
今でも覚えてるんですけど、第24節のアウェイ・川崎フロンターレ戦でジュニーニョのマーク役を命じられて、マンツーマンシステムみたいなやり方をしたんです。ジュニーニョはとんでもないスピードで、バリバリの全盛期だったと思うんですけど、その役を与えられて「これはやるしかない」って。
結局4−1で勝って、そこから僕はまたレギュラーとして使われ始めたんです。だから川崎戦が一つの転機だったと思うんですよね。そのあと1回の出場停止をはさんで、ラスト9連勝につなげていけたので。
個人的にも波に乗ったというか、チームの流れに乗れて、最後まで信じて諦めずにやってたものすべてがつながって最終節のドラマチックなラストを迎えられたと思います。2007年は本当に奇跡的だったとは思ってますけども、やるべきことをやった上での奇跡が起きたという感覚ですね。あれは本当に劇的でした。あれ以上はないでしょうね。
優勝を経験してたどり着いた精神的な境地
そこから僕の中ですごく心境の変化があったんです。2007年は初めて自分が貢献出来た優勝だったんで、その時は自分の中での喜びが大きくて。もちろん周りも喜んでて、それもうれしかったんですけど、2007年までは自分の中での喜びだったりうれしさで、結局は地位だったり名声だったりを考えてたと思うんです。そして2回目、3回目って優勝していくごとに自分の喜びがどんどん増えると思ってたんです。
でも実際は何かほっとする気持ちなんですよね。「よかった、みんな喜んでくれてよかった」と感じられて。2回目以降の優勝は、自分じゃなくて、見てくれている方だったり周りのための優勝に変わったんです。
周りの方の期待に応えられるかどうかに基準が変わりました。応援してくれてる、関わってくれてる人のために頑張ってるんだ、プレーしてるんだ、人の生活を背負ってるのを感じるんです。
応援してくれてる人は試合を楽しみに仕事して、休みの日にサッカー見に来るじゃないですか。そういったものを背負ってると感じてました。結果が出せずに、期待を裏切ってしまうのが苦しいと思うこともありましたけど、でもその苦しさが報われるときはあると思っていました。
だから優勝したら、見ている、応援してくれてる人の期待を裏切らずにすんでよかったという、人のための優勝になったっていうか。1回目からそう思えるのが一番よかったと思うんですけど。
この気持ちはアントラーズに所属しなかったらなれなかったと思います。「人のためにサッカーをしてる」ことが学べたのは、自分の人生においても今後も生かされていくだろうと今、感じてます。
ただ、2007年から2009年まで3連覇したあと、またリーグタイトルから離れて苦しむ時代が来ました。でもその当時、アントラーズはACLのタイトルを取ったことがなかったので、そのチャレンジもしてましたね。結局ACLは、僕がいるときにタイトルを取ることが出来ませんでした。
自分のことで言うと、ケガ人やチームの状況で、だんだんディフェンダーをやるようになってました。僕は入団当時、まさかアントラーズのセンターバックで試合に出るようになるのは想像してなかったんですけど。
高校時代、ボランチに松下裕樹さんや茂原岳人さんがいたんでセンターバックをやって、2年生のときに全国高校サッカー選手権大会のベスト4まで行ったんです。でもプロになるとき、自分の能力としてセンターバックという感じでは多分なかったと思います。
けど、年を重ねていって、2011年のシーズン最後のほうに巡り合わせで最後尾をやるようになったんです。ディフェンスラインに入れられたときは「まさか」という感じだったんですけど、流れに乗ったというか、タイミングで自然と後ろをやるようになっていきました。
そのまま2012年はほぼセンターバックだったんです。その2012年はジョルジーニョ監督との出会いが大きかったですね。自分の中で残っているというか、響く出来事があって。
僕は最初はレギュラーじゃなかったんですよ。ボランチとしては若い柴崎岳、梅鉢貴秀なんかが出てき始めたときだったんで、だんだん自分が出ることはなくなってきて。
そんなとき、ジョルジーニョ監督があるミーティングで、「今のタイミングは、サッカー選手としてこのまま終わってしまうのか上に行くのか、その瀬戸際だ」と、僕に対してじゃなくてチーム全体に言ったんです。
それが僕には自分の当時の状況とシンクロしてものすごく響いて、そこから「やってやろう」という気持ちになったんです。それでセンターバックで試合に出る気持ちが固まりました。
周りには「中盤よりは運動量が減るから後ろをやることによって選手寿命が延びるよ」と言ってくれた人もいたんですが、センターバックは瞬発系なパワーを使うので負担はあると思ってました。
それ以上に、やっぱりゴールに直結するポジションなんで、プレッシャーは中盤でやるときよりも大きかったですね。重圧は今までにないものでした。しかも2012年はちょっと降格もちらつくような順位になってしまっていた苦しいシーズンだったんですよ。
結局、チームも降格になることなくシーズンを終われましたし、ヤマザキナビスコカップのタイトルは取れました。その優勝と、センターバックとして長い時間経験させてもらったのが、その後のサッカー人生につながっていったんです。
ジョルジーニョ監督のあの言葉はかなりのターニングポイントでしたね。あれだけの実績を残された監督から発せられた言葉だったんですごく響きました。すごくいいタイミングだったって思ってます。
ジョルジーニョ監督は1年で退団されて、次の2013年、トニーニョ・セレーゾ監督になって、2013年はフル出場させてもらいましたし。ただ、また優勝は出来なかったので、そこは自分の実力不足でした。結局はセンターバックとしても最高順位は2014年の3位なので。
2015年にはセンターバックとしてヤマザキナビスコカップ優勝経験も出来ましたけど、やっぱりJリーグをセンターバックとして取りたかったって。あんまりこれは言ったことないですけど。2013年から2015年ぐらいまではトニーニョ・セレーゾ監督にセンターバックとしてずっと使ってもらってましたからね。
次の人生を考えながら現役を続ける方法
それから昌子源だったり植田直通が台頭してきて、切磋琢磨しながら、ときにはレギュラーだったりときにはベンチだったりして、それでも優勝目指してやってたんですけど、優勝は2015年の途中で石井正忠監督が就任してからになりました。
そのときも使ってもらってヤマザキナビスコナビスコカップはまた優勝に貢献出来たんです。でも、そこからはもう、ファン・ソッコだったり昌子、植田が使われるようになりましたね。
2016年になって、試合のメンバーからも遠ざかり始めた夏にサガン鳥栖からお声がかかったんです。そのときに本当にいろんなことを考えて、移籍という決断をしました。
2016年は2シーズン制だったんで、ファーストステージが終わったときに「このタイミングかもしれない」という気持ちもありました。移籍しないでアントラーズに残ったら、長く見積もっても残りもう1年ぐらいだったと思います。
それで鳥栖には2017まで1年半いさせてもらったんです。鳥栖からは2018年のオファーもいただいたんですけど、鳥栖に残ってたら「ベテラン枠」という立ち位置で、何かあったときだけ試合に絡む役なんだろうと思ってました。当時の鳥栖は資金力があったので、もし何かあればすぐに即戦力級の選手を連れてくるだろうと思って。
そういうベテランとして姿勢を示す生き方も一つだと思ったんですけど、30歳過ぎからトレーニング方法や考え方を変えて、2017年に実を結び始めてたんで「もう1回ピッチで躍動したい」って欲が出たんです。それで契約残ってたんですけど2018年はJ2の熊本に行ったんです。行かせてもらったというか。
熊本も苦しかったですね。僕はピッチで躍動したいという思いがあったし、それまでは優勝を目指すチームでやってきてたので、もう1つ、「昇格」を経験したくて移籍したんです。
最初は、それなりに勝ったりしてたんですけど、第16節から第28節まで3分10敗と勝てない期間があって、こんなに苦しいのかって経験をしました。僕は結構マイナス思考で考えやすいタイプなんで、それもあってかなり落ち込んでました。
結局熊本も2019年まで契約残ってたんですけど、もう次の1年がイメージ出来ない、サッカーを辞めるかどうかということで、熊本から離れる、離れなければいけないという気持ちになったんです。
責任感も気持ちもそうですけど、身体的にも何かしんどいと感じてしまって。それぐらい思いつめたというか打ちのめされたというか。自分で自分のことを打ちのめしたのかもしれないですけど、そういう心境になってました。
それで熊本から離れるって決めたときに、次の人生を少し考え始めたんです。そうすると、これまたいいタイミングで岩政大樹さんが声をかけてくださったんです。
当時岩政さんは関東サッカーリーグ1部の東京ユナイテッドFCでプレーされていて「熊本で苦しそうにしてたな。来年は東京ユナイテッドという選択肢もあるんじゃないか」というようなお話をなさって。そのときに初めて社会人チームでサッカー続けながら次の人生を考えるっていう選択もあるんだとインプットされたんです。
岩政さんは社会人リーグでのプレーを「現役ののりしろ」、現役と次の人生ののりしろだという言い方したんですけど、そういう考え方があるんだっていうのを知りました。デュアルキャリアって言うんでしたっけ。サッカーをやりながらも他の仕事をしていくっていう。
そうしたら熊本のときに自分と一緒に行動していた池谷友喜くんっていう若手が東京都リーグ1部の南葛SCの岩本GMを知ってると教えてくれて、それを聞いたときに全部なんかまた自分の中でつながる感じがあったんです。
熊本を辞めた後、鹿島で店を開こうと考えてました。その上でサッカーを続けるとするなら、拠点になっている鹿島から通えるところじゃないとダメだったので、南葛SCだとピッタリでした。それで全てがハマったっていうか、自分はサッカーの神様に導かれたと捉えてます。
結局、南葛SCで3年間プレーさせてもらって2021年いっぱいで現役を終えました。今思うと家族にはいろいろ負担かけたかもしれないのですが、これだけ長くプレー出来てよかったとみんなに感謝してます。
アントラーズから移籍するときに、新しいチームに行ったほうが学びや成長につながるなという思いがあったんです。実際に行ってみると人間関係を一から築くという経験が出来たので、それが自分の中で大きかったと思います。それまでずっと鹿島しか知らなかったから。
新しいチームで、別のやり方だったりチームの運営だったりも見られましたし、何よりもそういう人間関係を築いていくという経験を今まで自分がしたことなかったんです。チームの中もそうですけど単身赴任で行っていたので、地域の方々とのつながり、関係性を築いていくのも、すごく大きな経験になりました。
そしてそれがなんか……楽しかったんですよ、僕はどっちかっていうと、人見知りするタイプだったんですけど、こうやって人とつながれるってこんなに面白いことなんだ、楽しいことなんだというのにそこで気付けて。そこから人が……そうですね……苦手じゃなくなったんです。
それが今、鹿島でやっているお店にもつながってます。本当に人のお役に立ちたいという気持ちにもつながってますね。「人と関われるっていいな」というのを、日々大きく感じてます。
サッカー選手からインソール店経営へ
今、鹿島で「Assistart(アシスタート)」という店をやって「インソール」(靴の中敷き)を販売しています。
選手を辞めた後の人生で「自分の手にしてる強みって何か」と考えたときに、「インソール」があると思ったんです。自分が15年以上使ってきたものだったので、これは困ってる人のお役に立てると店を開こうと思いました。
ただ、インソールの話するにあたってまず極論を聞いてください。極端な話、もしインソールを使わなくて済むなら、それが一番いいです。なぜかというと、足の本来の機能が発揮出来れば、インソールは必要ないんです。こういうお店やってて言ってしまうのもどうかと思うんですけど。
一番大事なのは足がちゃんと使えることなんですね。それを促してくれるというか、機能を発揮させていくため補助的に使うのがインソールなんです。
体って、まず足が支えてるんです。だから足は人間の基礎、土台の部分です。ところが靴や環境によって、その基礎の機能がうまく発揮されないんですよ。いまは本当にちゃんと足の機能が使えてる人ってなかなかいない時代だと思ってます。
その足を本当にちゃんと使えるようにさせるために、インソールが必要になってくるんです。足がしっかり接地できないと、そこから足首だったり膝だったり腰だったり骨盤の位置だったり歪んでいっちゃうというか、ずれてねじれていきますから。
実はインソールより大事なものがあって、それは靴なんですよ。現代社会って靴を履くじゃないですか。だから足と靴の関係が一番です。それでも困ってしまう方に、その足の本来の使い方を促してあげるのがインソールだと僕は思ってます。
そして足と靴の関係で自分の経験を言うと、僕は足が27センチなんですけど、25.5センチのスパイクを履いてたんです。蹴る時に靴の中で足がずれて踏ん張れない、相手の動きについていけないのがイヤだったから。すると、若いときには捻挫が多かったですし、腰痛も多かったんです。
原因ははっきりそういう小さい靴を履いていたことだったんですよ。足が使えてないから、ちゃんと踏ん張れないから靴の中で足が動いてズルっていってしまう感覚なんです。
もしちゃんと足が使えていれば靴で閉じる必要ないんですよ。きついサイズ感で履く必要ないんです。足がちゃんと使えればそれほど滑ったり、中でずれちゃったりっていうのは起きません。
でも僕はキツめのサイズの靴を履くのが小さいときからの習慣だったんです。小学校でサッカーを始めて、基本的にはきつい革のスパイクを選んでそれをなじませて、ピタッとさせて、その感覚が当たり前でずっと中高時代を過ごして。
でもそうしたらプロの最初の2、3年目ぐらいでそういうケガで苦しんだんです。ケガしちゃったら練習も試合も出来ないじゃないですか。プロにとっては致命的なんです。
僕が腰痛や捻挫で悩んでたら、友達も同じような症状で苦しんでいたときにインソールを使ったと聞いて、興味を持ったのが最初です。そのインソールの「BMZ」という会社が生れ故郷の群馬にあると聞いて行ってみたんです。
そこで気づかせてもらえたんですよ。「BMZ」の高橋毅社長に「インソールもいいけど、まず靴を見直せ」って言われたんです。
結局、足がちゃんとしてなければダメですし、靴もちゃんとしなければダメ。そこがちゃんとしないとインソールの効果が最大限には発揮されない。だからその場では「インソールを提案するのは、まず靴のサイズを変えてからだ」と言われて、インソールを勧められなかったんです。
高橋社長から「せめて26.5センチぐらいまでにしろ」って言われたんですけど、僕は自分のサイズ感が当たり前だったので、まず26センチにしました。最初は足が靴の中で動く感覚があって、やりにくいと思ってたんですけど、何とか1年ぐらいかけて最終的には27センチまで持っていったんです。
そうしたら外傷系のケガ以外の、たとえば捻挫とか筋肉系の痛みがなくなりました。そういう経験をしているので、これは絶対伝えられる、自分が自分の身体で実証してる、人体実験済みだと思って店を始めることにしたんです。
でも結局インソールって目に見えなくて、スパイクってやっぱり見た目重視だったり、スーパースターが履いてるという選び方される時代じゃないですか。僕もそうだったんですけど、サッカーの道具で一番大事な、体と一体になるべきスパイクがそういう選び方されてるのはどうだろうと最近すごく感じてます。それでケガしちゃったらサッカー出来ませんから、もっと靴に意識を向けてほしい。心からそう思ってます。
普通の靴でもみんな基本的には既製品を履いているから、ちょっと足に合ってませんね。それも、もしかしたらこのインソールで補えるかもしれないです。でも、やっぱり一番大事なのは靴なんです。インソールを入れないときよりは、入れた方がよくなると思います。でもそれより先に靴の形が足に合ってないと、やっぱり足の状態がよりよくならないと思いますね。
だからうちは靴を持ってきてもらうことにしてて、靴のサイズが合ってなかったらインソールはお勧めしてないです。多分、買ってもらっても解決にならないので。
そういう感じの店をやってます。この店で人との出会いがたくさんあるので、そこにまた喜びがありますね。もちろん困っている方のお役に立ちたいという思いが一番あるんですけど、それと同時に人とここで出会えていろんな話が出来るっていうのに自分はすごく喜びを感じています。
ねぎ焼きミックスを食べながら人生相談
食べ物屋さんですか。知っている人が多いのでなかなか決められないんですが、近所から紹介しておきますね。
まず、「だいせん」さんというお好み焼き屋さんがあるんですよ。よく相談に乗ったりしてもらう仲なんです。2021年だったら「サッカーはもうそろそろかと考えてて、次の人生どういうのがいいですかね」とかって結構深い相談だったりしました。その店で僕が食べるのは「ねぎ焼きミックス」と言って、ネギを主体としたお好み焼きですね。
それから近場で言うと、「K3 cafe(カフェ)」さんっていうカフェがあって、そこも僕はパワーをもらいに行ってます。自分の中でのパワースポットですね。お店の方がすごくいい人で、やっぱり相談に乗ってもらったり、話を聞いてもらったりして癒されてます。
ここは米麹コーヒーと言って、米麹と混ざったコーヒーがあります。それから基本的にハワイ系なんで、ラテみたいなちょっと甘いコーヒーだったり、タピオカ系が入ったものもあります。現役時代は、オフだったら、ちょっと甘いのを飲んだり、シーズン中の練習の前だったら米麹が体に良さそうだと思って頼んだり、その時の気分で選んでました。
あとは僕の店のすぐ横に「たる平」さんという定食屋さんがあるんです。ここは老舗の定食屋さんで、こだわりを感じられるご飯屋さんですね。なんか優しさを感じるんですよ。マスターはちょっと寡黙な方っていうか、仕事人というような雰囲気で料理を出してもらえて、女将さんが明るく接してくれて。
海の幸定食みたいな海鮮に特化した御膳や、ひょうたん弁当という、ひょうたんみたいな器にいろいろミックスされているような定食もあります。このひょうたん弁当はローカルで結構有名なんですよ。うちの店に来たときには、ぜひ一緒に寄ってみてくださいね。
紹介したお店
※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください
青木剛 プロフィール
前橋育英高校から2001年に鹿島アントラーズへ入団。3年目からはレギュラーとして頭角を現し、2008年には日本代表にも選出された。サガン鳥栖、ロアッソ熊本、南葛SCを経て2021年に引退。現在は靴の中敷き店「アシスタート」を経営する。1982年生まれ、群馬県出身。
「インソール」を専門店で買ってみた
森雅史 プロフィール
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。
【関連リンク】
Source: ぐるなび みんなのごはん
「まず靴を見直せ」の言葉が人生を変えた…人見知りJリーガーだった青木剛のセカンドキャリア【ごはん、ときどきサッカー】