あの夜、僕は「ゾーン」に入っていた…澤登正朗が振り返る静岡サッカーが熱く燃えた日【ごはん、ときどきサッカー】

 

Jリーグで過去、同県クラブでチャンピオンシップ優勝を争ったのは2回。そのうちの1回は1995年の横浜マリノスvsヴェルディ川崎で、その後ヴェルディが東京に移転したため、今でも同県対決になっているのは1999年のジュビロ磐田vs清水エスパルスだけになった。

 

2ステージ制で争われた1999年、ファーストステージはジュビロが制し、セカンドステージはエスパルスが覇者となる。チャンピオンシップで対決することになった両チームにはきら星のごとく代表選手たちが顔を揃え、ホーム&アウェイで行われた2試合はともに互角。そして勝敗は残酷な方法で決着することになった。

 

ゾーンに入った特別なシーズン…1999年の清水エスパルス

1999年は清水エスパルスのクラブ史上でもすごくいいサッカーをした年だったですね。

 

1998年のオズワルド・アルディレス体制のときからチーム状態はよかったんですよ。点も取れてるし守備も固いというスタイルがある程度構築されてて。1998年末でスティーブ・ペリマン監督に代わったときに3-5-2になって、より守備が安定しました。

 

斉藤俊秀、森岡隆三、戸田和幸の3枚がうまくスライドしながらプレーできていたんです。DFラインが縦にずれることはそんなになくて、空いたスペースを使われたときは横へのスライドの連続でカバーしていく感じでした。

 

もちろん守備の選手たちのクオリティも高かったんですけど、守備ラインを整備したことで市川大祐、アレックス(三都主アレサンドロ)の両ワイドがより高い位置に行けたんです。

 

アレックスは1997年ぐらいにアルディレス監督が少しずつ使い始めました。1999年、ペリマン監督が「突破するタイミング」を整えて、それがよかったんですよ。何が何でも縦に行くんじゃなくて、いいタイミングで仕掛けられるようになったんです。

 

そういう仕掛けがアレックスのよさでもあったし、相手にとっては脅威だったと思います。しかもアレックスをどう抑えるかばかり考えていると、反対側から市川が行く。両サイドの高さの取り合いという駆け引きで、すべて主導権を握っている感じがしましたね。

 

そしてサイドが上がったときに空いてしまったスペースは、たとえばサントスや大榎克己さん、伊東輝悦や他のボランチの選手が埋めてくれる。バランスは間違いなくよかったですね。

 

いろんな守備や攻撃の戦術の型に選手をはめて、というのはなかったですね。ただ原理原則のところだけは厳しく言われました。ペリマン監督は現役時代に守備の選手だったので、特に守備は徹底して言ってました。

 

試合でもちょっとサボって守備になったときあまり下がらなかったりしてると、監督からすかさず怒声が飛んで出てくるんです。そのぐらい規律にはうるさい人でした。

 

サボるとハーフタイムにもすごく怒られるんです。一度あまりに怒っているので僕が止めたこともあったぐらいです。ただ、それじゃなきゃダメでしたね。それぐらい熱くて規律を重んじる人でなければ選手を動かせないと思ってました。

 

僕はキャプテンとして練習からピリピリ感を出そうと思ってましたね。「なぁなぁ」だと勝てないですから。口で言うのが得意なタイプじゃないので、背中を見てくれればと思ってて、周りも感じてくれてたと思います。

 

締まった雰囲気じゃないときは、練習でワザと自分がバンっと強くボールを奪いに行くんですよ。みんなが「ちょっと怖い」と「やばい」という空気になり、それで言い合って厳しいムードになって緊張感が増すんです。当時のエスパルスはそういう感じだったんですよ。

 

それからこのシーズンの僕は「ゾーン」に入ってたんですよ。体が動くし、イメージまでちゃんと合うし。何やってもうまくいくので、脳と体が一体するってこういうことなんだ、これが「ゾーン」というのだろうと感じました。

 

実際、一番体が動いたシーズンだったかもしれないですね。しかも「動く」っていうのも、ただ闇雲に動いていた若いころと違って、効果的に動けて仕事してましたから。1クールぐらいいいっていうのは誰しもがあると思うんですけど、このときの僕はシーズンを通じてよかったと思います。

 

ただ、チーム状態はよかったんですけど、ファーストステージはジュビロ磐田とホームで対戦したとき2-5とやられたんです。僕がPKで先制点を取ったんですけど、それからドドドンとやられたんです。なんとなく覚えてます。

 

ダービーの位置づけっていうのは調子が悪くても良くても、負けちゃいけないんですよ。ところが僕たちはジュビロに対してちょっと苦手意識があったんです。1998年までジュビロにリーグ戦では3勝11敗となかなか勝ててませんでしたから。「なんかいやだ」という雰囲気、苦手意識をチーム全体として持ってたんですよ。それじゃ勝てないですよね。

 

しかも中山雅史さんの調子のよさもありました。1998年には4試合連続ハットトリックしてましたし、かなりノってる状況だったので、そこはやはり怖かったですね。それからこのファーストステージでは名波浩がいたんです。このシーズンの途中にイタリア・セリエAのヴェネツィアに移籍したんですけど。

 

それに名波だけじゃなくて、藤田俊哉や福西崇史、服部年宏、奥大介(故人)という選手たちはやっかいでしたね。もちろんエスパルスにも長谷川健太さん、安藤正裕も田坂和昭たちもいて負けてなかったと思います。

 

ファーストステージのダービーには負けたんですけど、3バックがだんだん完成してきて、試合を重ねていくごとに安定していきました。だからファーストステージは4敗で3位でしたが、セカンドステージは90分間で負けたのが2試合、Vゴール(延長戦でゴールが入った瞬間にタイムアップになる競技方法)負けが1試合でしたし。

 

攻撃もFWの安永聡太郎と久保山由清がうまく2人のコンビネーションでやってくれてました。他にもファビーニョっていう、背は低いけれどもパワフルな選手が途中から出てきてガーンと蹴り込むんです。

 

それでセカンドステージの第2節、アウェイでジュビロを破ったんです。この勝利は大きかったですね。80分にイチ(市川)が右からテル(伊東)に渡して、テルがドリブルするとアレックスに折り返してそこからゴールしたんです。ジュビロに勝つということはやっぱり厳しかったですよ。でも1-0で勝って本当に気持ちよかったのを覚えてます。

 

そのままの勢いで迎えたセカンドステージ第14節、4万4,028人の観客が入った横浜で横浜F・マリノスを2-1と破り、念願のステージ優勝を果たすことが出来ました。

 

運がなかったチャンピオンシップ第1戦

1999Jリーグチャンピオンシップ第1戦
12月4日 15:03キックオフ ジュビロ磐田スタジアム

磐田:GK尾崎勇史、DF安藤正裕、鈴木秀人、前田浩二、山西尊裕、MF藤田俊哉、三浦文丈、服部年宏、奥大介、FW高原直泰(65分福西崇史)、中山雅史、SUB大神友明、古賀琢磨、喜多靖、西紀寛

清水:GK真田雅則、DF斉藤俊秀、大榎克己、西澤淳二、MF市川大祐、サントス、澤登正朗、アレックス、FW久保山由清、安永聡太郎、SUB羽田敬介、堀池巧、興津大三、長谷川健太、ファビーニョ、SUB羽田敬介、堀池巧、興津大三、長谷川健太、ファビーニョ

 

ファーストステージはジュビロが優勝して、セカンドステージはエスパルスが勝って、年間王者を決めるためにチャンピオンシップで対決することになりました。1戦目はジュビロ、2戦目はエスパルスのホームで、90分間を終えて同点の場合はVゴール方式の延長戦。2戦目を終えて同点の場合はPK戦が行われることになっていました。

 

チャンピオンシップでは、森岡はケガで離脱してたし、戸田は急病で第1戦を欠場するんですけど、「まず負けないだろう」という、そのぐらいの気持ちだったんです。

 

そのシーズンの試合の実績は、エスパルスの年間勝点が65点だったのに対してジュビロは49点だったし、「オレたちのほうが絶対上なんだ」っていう気持ちになってたんです。油断していたわけではなくて「まず負けないだろう」という自信と雰囲気が選手全体にありましたね。横浜の大舞台で優勝を決めたときも「これで終わりじゃねえんだぞ」ってそこからもう1回引き締まって、チャンピオンシップでした。

 

ところがその第1戦、30分に先制されるんです。アシストが、その年の10月にエスパルスからジュビロに移籍した安藤だったんですよ。

 

安藤がうちの左サイドでボールを持ったとき、まだクロスを上げないだろうという感じで、ディフェンスに入っていたサントスも間合いが広かったんです。それでもサントスは右利きの安藤の右足の前にいたと思うんですよね。

 

そうしたらアウトサイドに掛けて、サントスを避けてGKのほうに曲がるボールを入れて来たんです。まさかそう蹴るとは思わないじゃないですか。だからクロスが上がったときに中央の中山さんへのマークも付きにくかったんです。だけど中山さんはクロスに対して身体が動いて頭に当てるという、安藤との意思疎通が完璧にあったすごいゴールでした。

 

実は安藤ってエスパルスにいたときかわいがっていたんです。あるとき安藤から「ジュビロからオファー来てるんです。僕は行きたいと思います」という相談を受けたんですよ。僕は「いいんじゃないか。現状は市川が出ていて使われてないんだったらそっち行ったほうがいいよ」って言ったんです。

 

ジュビロに移籍したら、やっぱりすぐ試合に出るし、チャンピオンシップでも当然先発出場してきました。対戦するとき「安藤いやだなあ」と思ってました。安藤とはよく自主トレを一緒にやってて、そのとき「アウトサイドのキックがうまい」と思ってたんです。けれど、まさかの場面で使ってくるとは思いませんでした。

 

だから中山さんをマークしてたトシ(斉藤)にしても、GKの真田雅則(故人)さんにしても「まさか」と思ったんじゃないでしょうか。しかもスピードのあるボールで、少しでもゴール前のタイミングがずれたら合わせるのが難しかったと思います。そのクロスを中山さんはパスが来ると信じて飛び込んで、決めちゃうんです。それが中山さんのすごいところで。

 

そんな得点を決められたんですけど、でもすぐに追いついたんです。34分に左サイドから久保山がカットインしてきてペナルティエリアの近くに来たとき、ボールがちょっと長くなったんです。

 

「これオレが打ったほうがいいんじゃないか」と思って、とっさに打っちゃったんですよ。久保山は「打つな」みたいな感じになってたと思うんですけど、左足でドンっと打って入ったんです。

 

イメージとしては前にDFがいたのでカーブを掛けて巻くしかないと思ってました。蹴ったときに「これはいいところに行った」と思ったら入ったんです(笑)。蹴ったときに分かるんですよ。「これはいいな」って。

 

あれが確かあのときのアジア最優秀ゴールに選ばれたんです。自分としては第2戦のFKじゃないのかと思ったんですけど。今、冷静に見返したらいいシュートだと思います。

 

どちらかというと僕は左足のほうが正確に蹴れるんですよね。それにあのタイミングだったからこそ入ったゴールだと思うんですよね。尾崎さんも「まさかそこで打たないだろう」という感じだったと思うんで。そこはしてやったりでした。

 

追いついたチームって乗るじゃないですか。それにこの試合は立ち上がりから結構チャンスを作ってたんです。失点直前には僕のヘディングシュートがクロスバーに弾かれたり、安永や久保山、サントスなんかのシュートをジュビロは身体でブロックしたりしてました。エスパルスがペースを握ってたと思うんです。

 

だけど結局1-1で、Vゴール方式の延長戦に入りました。その延長8分、右から福西が上げたクロスが西澤淳二の手に当たってPKを取られてしまうんですよ。手が身体からほんの少し離れてましたし、手に当たってボールが下に落ちたので、レフェリーのレスリー・モットラムさんには印象悪かったんでしょうね。

 

「こんなことあるか?」っていうぐらい、運がない感じしましたよ。中山さんが蹴るときに「外せ!」と願ってたんですけど、左にガーンと蹴られてパワーで押し込まれましたね。

 

中山さんにあとでPKについて聞いたんです。真田さんは同じ静岡出身だから小さいころから知ってるし、国体では一緒にプレーしてて、蹴りづらい。だからどこに蹴るか分からないように思い切り蹴ったと言ってました。

 

でも中山さんと真田さんだけじゃなくて、この両チームだとかなりの選手がプロ選手になる前からの知り合いなんです。小学校や中学校、高校から静岡に来たという選手もいて、お互いにみんな分かってるんですよ。

 

トレセンの強化合宿なんかで一緒になってるから、特徴も性格も知っているし、相手にしたときはお互いにやりづらさはありましたよ。ただ、そのぶん闘志が出てくるんですよね。それがまたよかったのかもしれないです。

 

僕は「雑草」 エリートには負けたくなかった

1999Jリーグチャンピオンシップ第2戦
12月11日 19:33キックオフ 日本平スタジアム

 

清水:GK真田雅則、DF市川大祐、斉藤俊秀、西澤淳二(86分大榎克己)、戸田和幸、MF伊東輝悦、サントス、澤登正朗、アレックス、FW久保山由清(96分長谷川健太)、安永聡太郎(68分ファビーニョ)SUB羽田敬介、興津大三

 

磐田:GK尾崎勇史、DF安藤正裕、鈴木秀人、前田浩二、山西尊裕、MF藤田俊哉、三浦文丈、服部年宏、奥大介(98分西紀寛)、FW福西崇史(69分高原直泰)、中山雅史、SUB大神友明、喜多靖、古賀琢磨

 

第2戦は1週間後でした。実はその1週間、みんなすごくにこやかだったんですよ。なぜならば、90分で仕留めれば、Vゴール勝ちよりも90分勝ちのほうが上回るというレギュレーションだったので、僕たちの勝ちになるんです。

 

しかもホームで戦えるし、「全然問題ないでしょう」みたいな感じになってたんです。不思議だと思いましたね。いつもダービーと言うと、みんなガチガチに緊張してたんですけど、練習のときからそんなことが全くなかったので。キャプテンとしても何もしなかったですね。もうピリッとした空気になってましたから。

 

ところがその2戦目も34分に先制されてしまうんです。西澤が中山さんにボールをさらわれてつながれ、服部にシュートを決められたんです。

 

あれは僕が悪いんですよ。ボールを失う前、僕はいち早くバイタルエリアを埋めようと思ってポジションを取ってたんですけど、そのせいで服部との距離が広がりすぎてて。最後にスライディングに行ったのは僕なんですけど、ボールに触れられなかったんです。あそこまで埋めなくてよかったというのが、僕の反省材料です。

 

西澤は、多分第1戦でPKを与えたのがトラウマになっていたのだと思います。普通はあそこでミスが出るなんてことないですから。あれも緊張感だと思います。自分に重圧がかかっていたと思うんですね。だから体の運びとか判断に遅さがあって。いつもだったらあんな感じじゃないですからね。

 

西澤って意外に飄々(ひょうひょう)としてるんですよ。だから第1戦が終わったあとの練習を見てても変わったところはなかったんです。だけど試合になったらちょっと固かったですね。きっと責任を感じてたんだと思います。

 

ただ先制点は奪われたんですけど、我々にもチャンスがありました。立ち上がりから僕もシュートしてましたし、アレックスや安永も打ってましたので。フィニッシュの精度の問題はもちろんあったと思うんですけど、そこまで押し込める状況を作れてたんで、点は取れるだろうと思ってました。

 

ところが35分、アレックスがファウルを受けて倒れたときに相手選手を蹴ってしまい、退場になったんです。みんな止めに入りながら「なにやってんだよ」と頭に来ました。けれど、1人いなくなって逆にもっと火がついたっていうのもありましたね。

 

アレックスは退場になったんですけど、その前のファウルで笛が吹かれていたのでその場所からFKになりました。僕は「決めるならここしかない」と思ってました。1人少なくなったら、FKやCKというセットプレーかカウンターで点を取るというのがセオリーじゃないですか。そのセットプレーがまずここにあるんだから。

 

ゴールまでかなり距離はあったんですけど、冷静に判断できたんです。右から横風が少し来てて、これは結構曲がると思ったんですよ。そしてGKは絶対にニアサイドをケアしてくるから、逆を取ってやろうと思ったんですよね。

 

だからファーサイドに蹴って風に乗せれば、多分1メートルぐらい曲がってゴールの角に行くだろうって。そこで一度、目をつぶってイメージを作ったんです。そして「これは入った」と思って目を開けて、蹴った瞬間に「これは行った」と思いました。それが多分「ゾーン」だと思うんですよね。

 

自分としてはあそこで冷静に判断できて、ゴールへのプロセスを頭の中に描けていたことを評価したいと思っています。ただ、僕があのFKを狙ったら100パーセント入るかということ、そんなことはないんです。

 

だから僕は「たまたま」って言うんです。たぶん10回蹴ったら4回ぐらいしか行かないと思います。本当にうまい人だったら9回ぐらいは行くんでしょうけどね。僕は自分自身のことをFKのスペシャリストだとは思ってないんです。両足は大体正確に蹴れるけどスペシャルじゃない。普通の人よりは狙ったところに行くとは思ってるぐらいです。

 

僕は高校のときに「両足蹴れるけど、フィジカルが弱い」って言われたんですよ。フィジカルはおいといて、「蹴る」ということに関しての評価はそのぐらいからされてたんで、「自分はキックがそこそこ上手いんだ」というのは感じてました。それをどういうふうに伸ばしていくのかはやっぱり蹴り続けるしかなかったですね。

 

じゃあ現役時代にすごく練習したかっていうと、足首のケガがあったので、練習を毎日はできてないんですよ。痛みがない日は結構蹴ったりしましたけど、蹴らない日もありました。

 

でもここまで来られたのは、小学校のころに「あれ」をやってたからだというのが1つあります。それはシュート板なんですよ。ゴールに見立てた板に1から8まで数字が書いてあるじゃないですか。その数字に全部当てないと家に帰らないっていうのを結構やってたんです。右足も左足もやって、ただ蹴るだけじゃなくて曲げて蹴ってみるとか。それで正確性が身に付いたんだと思います。

 

ただその練習は誰しもやってると思うんですよ。特に清水の選手たちはみんなもっとやってたと思います。僕は富士宮出身で、清水ほどサッカーが盛んじゃなかったし、清水ほど強くなかったんです。だけど蹴り続けるって意外に飽きちゃうじゃないですか。僕はシュート板の練習が好きだったから、飽きずに楽しみながらやれたのがよかったのかなと思います。

 

それから僕は「雑草」で、清水出身の人たちのエリートに負けたくないという気持ちを持ってました。中学のときの県選抜を決めるときに、小学校から清水FCに入った選手はAチーム、Bチームぐらいに振り分けられるんです。

 

当時の清水FCは僕たちから見るともうスター選手で、同級生なのに「こいつ知ってる!」みたいな感じでした。僕たちはCチーム、Dチームぐらいなんです。最初の部分から違うんで「何だよ、これ」みたいな感じになってましたね。しかもゲームで活躍して点を入れても県選抜に選ばれないんですよ。

 

このときの「なにくそ魂」があったから高校でも頑張れたんです。富士宮から静岡市の東海大学第一中学校(現・東海大学付属静岡翔洋高等学校中等部)に来たときも推薦じゃなくて受験でしたし、「よそ者」という扱いを感じてたんです。だから「こいつらには絶対負けたくない」と思ってやってました。

 

そういう雑草魂がその後にずっとつながったんじゃないですかね。高校はそのままエスカレーターで上がっただけで、引き抜かれたわけでもないですし。だから僕はエリートじゃないです。

 

ただ高校に入ってすぐに認められて、1年生から試合出してもらっていたんで、運はあったのかもしれません。中学校になってコンプレックスがなんとなく薄れてきて、「いや、オレのほうが上手い」って思えるようになってきましたし、なおさら負けたくないっていうのもありました。

 

この「負けず嫌い」は親の育て方がよかったんだと思います。それに中学から親元を離れて学校生活を送らせてもらったので、自分がしっかりしなきゃないけないという環境にいたのもよかったんでしょう。どっちも親のおかげだと思っていたし、サッカーのために学校に行かせてくれたことを何かで恩返ししなきゃいけないと感じてました。親への感謝は忘れてなかったですね。

 

僕は勉強ができるわけでもないですし、語彙(ごい)が豊富なわけでもないですし、コミュニケーション能力も高いと思ってないです。人と喋るとか、人前で喋るというのは意外に苦手なんですよ。

 

苦手なんですけど、だからこそメディアの仕事をしてみようと思ったんです。「どう伝えるのか」という部分を勉強しなければと思い、最初に静岡の番組に出演させてもらって、そこから報道ステーションの仕事が来て。

 

ただね、報道ステーションの話は最初やりたくないと言ったんですよ。「人前で喋る、しかもあんな生放送で無理です」って。断ったんですけど、どうしてもっていう話になって、そこから始めたんですよ。

 

だから最初は大変でした。何のレッスンをしたわけでもないのに、どう伝えていけばいいんだろうとか。事務所の人、ディレクターさん、プロデューサーさんたち、いろんな人と話して、「こういう言い方したほうがいいんじゃないか」というのを作り上げていったんです。

 

静岡はサッカー番組だったんで、サッカーのことを普通に話してたんですけど、報道ステーションではもっと伝え方を柔らかくしなきゃいけないし、そこで言葉の使い方、どう言わなきゃいけないのかと、勉強させてもらいました。

 

今思えばいい経験をさせてもらいましたね。現在、エスパルスユースの監督をしていて、高校生にどう言ったら伝わるのか、今までの言い方だと伝わらないというのも結構ありましたから。

 

「この子たち分かってるよな」と思ってても、後から聞いてると「あれ、伝わってない」というのが実際あって、もう少し伝え方を変えなきゃいけないというのがあります。でもそれを「変えなきゃいけない」と分かったのは、メディアの仕事をやってきた経験があるからだと思いますね。

 

そして僕が言ってるのは「サッカーだけじゃダメ」ということですね。「君たちはまず学生なんだから大切なのは学業だ」「大学に行くにも評定があるんだよ」って。ただ勉強って、出来ないんじゃなくて、勉強の方法が分からないということなんです。だからそのやり方を今年筑波大学から入ったスタッフに見てもらって、それで少し伸びました。

 

これはサッカーでつまずいてる子と同じなんです。サッカーをどうやったらいいのか分からなくてつまずいてるだけなんですよ。勉強と同じでつまずいている部分を整理してあげれば自ずとプレーはよくなります。そしてそこが整理されてくると、トップチームに行きやすくなるんじゃないかと思いますね。

 

サッカーだけやってればトップに行けるかというと、そうじゃないんですよ。「人間力」がついてこないと上がれたとしてもすぐ契約満了です。そこだけは何とか伝えてあげたいんです。

 

そしてユースからトップに上がったプレーヤーが中心選手になれる存在でないと、やっぱりクラブの存在意義が薄くなるのではないかというのが、ユースを任されて一番感じた部分ですね。そしてユースとトップチームがうまくつながれば、自ずからトップチームの順位は上に行くんじゃないかと思っています。

 

 

優勝を逃してみんな泣いたけど清々しかった

話を試合に戻すと、実は同点に追いついたあともエスパルスは守り一辺倒になったんじゃなくて、結構フィニッシュまでいけてるんです。カウンターにはなりましたけど、もしかしたらこれは90分で勝てるんじゃないかと思いました。ただジュビロの守りは固くて結局90分を戦って1-1でしたね。

 

2試合連続の延長戦になりましたが、「延長戦になっても決めればまだ分からない」という状況だったので焦らなかったですね。焦ってたのは多分ジュビロのほうだったんじゃないかと思います。僕たちが10人になったのに攻め込まれてて。

 

延長戦ではもう最後の気力を振り絞るしかなかったですね。すると99分、大榎さんがファビーニョに右足のアウトサイドでパスを出して、ファビーニョが力強く蹴り込んでVゴール勝ちになりました。

 

実はファビーニョが空いたのって僕がDFを外に引っ張ったからなんです(笑)。あれでディフェンスがつられてくれたからファビーニョがフリーになってて、そこを大榎さんが見逃さなかったという連続性が生まれて。

 

そのVゴールで紙吹雪がバーッと出たんですけど、僕は「これで終わりじゃないんだけどな」と冷静に思ってました。2戦を終えてイーブンだったのでPK戦になりましたから。

 

PK戦は後攻になったんですけど、エスパルスのサポーターの前のゴールを使うことになりました。服部が決めて、エスパルスの1番手は僕でしたね。僕が外しちゃいけないという重圧はなかったです。「もう決めるしかない」と外すことを考えていませんでした。

 

ああいう場面って「決める」という気持ちだけで臨まないと外しますよ。余計なことは考えない。僕は最後まで動かないGKは蹴りづらいんですけど、きっと尾崎さんは先に動いてくるだろうと思ってました。尾崎さんも僕のデータが頭に入ってたんでしょうけど、うまく逆を突くことが出来ましたね。

 

ジュビロが僕たちのデータを持っていたのと同じように僕たちもジュビロのデータを持っていて、GKコーチのフッカが真田さんに全部指示を出してたんです。実際に服部、高原直泰、鈴木秀人と3人はコースがピッタリあってました。ただそれでも高さがちょっと違って入れられてしまって。もうジュビロのキッカーの質がよかったというしかないです。

 

僕たちは2番手のサントスが止められて、3番目の伊東は入れたんですけど4番目のファビーニョが外して負けました。

 

だけどサントスはあの試合でどれだけ抑えてくれてたんだというくらい活躍してましたし、ファビーニョはVゴールを取ってますし、「仕方がない」という気持ちでしたね。PKはもうしょうがないですよ。それに僕は自分の蹴った後、ゴールのほうを見てないんです。仲間がPKは見ていられないんで、ずっと下を向いたままでした。

 

監督になった今でも選手のPKは見たくないですね。くじ引きみたいなもんですから。入って当たり前という状況の中で外した選手のことを考えるといたたまれないですし。僕も14年間プレーして2回外してますからね。しかも「これを入れたら2位になって賞金が5,000万円」というPKも失敗しましたし。

 

優勝を逃したあとはみんな泣きましたけど、でも意外に清々しかったですね。1人足りない状況であそこまでもっていった、やりきったという気持ちで。もちろん勝負なので、勝って歴史に名を刻めなかったという残念な気持ちはありますが、みんなの記憶に残るいい試合は出来たと思うんですよね。

 

悔いはね……もちろんちょっとありますよ。でも、出し切ったんであんまりなかったですね。出し切ってこれならしょうがないっていう。

 

あの2試合を振り返ってみて今、一番思い出すのは……サポーターがあれだけ熱くなってチームを後押ししてくれたということですね。あれ以上のものはなかったです。寒い中、盛り上げてくれました。アウェイにもホームでもたくさんの方が駆けつけてくれて、スタジアムで応援してくれました。

 

やっぱりサポーターがあっての試合だったと思いますし、選手もあの2戦で大きく成長したと思うんですよね。もちろんクラブとしてもそうでした。「あれだけの大舞台でこれだけできた」という自信が次の年も残ってましたね。

 

残念ながら、そこからまだ静岡勢同士で優勝を争うということはないですけど、高校サッカーで言えば、静岡学園が全国高校サッカー選手権大会で活躍してくれたというのもありますし、もちろん我々もユースを強化していきたいと思ってます。

 

静岡全体のサッカーをもう1回盛り上げるためには、まずはエスパルスとジュビロがもう少し上の順位で戦っていかなければいけないと思っています。この2チームが強い状態をもう1回取り戻すっていうところが、静岡サッカーの明るい未来の原動力じゃないですかね。

 

その原動力のための原動力を作るのが今の僕の仕事ですね。トップに上げられて、しかも中心選手で活躍する人材を作りあげたいと思います。それと同時にプロになったとき一番重要な要素になってくる、もっと勝利にこだわる気持ちを植え付けたいと思っています。

 

茹でたシラスをごはんの上にのせて醤油をちょっと垂らして食べる

一番最後に食べ物の話をするんですよね。

 

僕やっぱりね、静岡なのでシラスとか桜海老が好きなんですよ。シラスごはんって結構好きで、茹でたシラスを少しごはんの上にのせて醤油をちょっと垂らして食べるんです。最近、新型コロナウイルスの影響で出歩いてないんでスーパーから買ってくるんです。僕はちっちゃいシラスのほうがうまいと思ってます。

 

清水だと、どこのスーパーでもいいやつを売ってます。久能街道沿いにはシラスのお店もありますし、由比や漁港に行くとその場で食べられたりもします。おいしいところありますから行ってみてください。

 

日本料理だと、元々エスパルスの寮の料理長で、10数年前に独立した井上さんのお店がおいしいです。草薙から静岡の中心街に移転した「花咲」という店なんですけど、そこはよく行ってて、お刺身なんかを出してもらってます。すごくいい海鮮料理やお肉までおいしいですね。

 

それから僕がよく食べに行くのは焼肉と寿司で、焼肉はおいしいところが2ヶ所あります。選手たちもよく行くのは「文田商店」っていう炭火で焼くところですね。もう1つは「南大門」という店です。元々エスパルスの選手だった松原忠明がやっている店です。

 

お寿司屋さんだと、静岡に「寿司割烹 八千代寿し鐵(やちよ すしてつ)」というところがあるんです。ここは真田さんとよく行ってた店です。真田さんは今も夢にも出てきたりとかするんですよ。通勤経路のすぐ近くにお墓があるんで、通りながら「あぁ、ここにいるな」みたいな感じで思ってるんです。本当にいい人だったんですよ、あの人。今いれば多分一緒に仕事してたと思うんですけどね。

 

紹介したお店

文田商店 本店
〒422-8033 静岡県静岡市駿河区登呂2-18-13
焼肉 南大門
〒422-8053 静岡県静岡市駿河区西中原1-5-41
寿司割烹 八千代寿し鐵(やちよ すしてつ)
〒420-0013 静岡県静岡市葵区八千代町63-4
5,000円(平均)2,000円(ランチ平均)

※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください

 

澤登正朗 プロフィール

東海大学第一高校、東海大学を経て1991年、清水エスパルスに入団。1993年には日本代表としてドーハの悲劇を経験、Jリーグ初代新人王を獲得した。Mr.エスパルスと呼ばれ、エスパルス一筋のまま2005年に引退。引退後は解説者、指導者として活動し、2022年からは清水エスパルスユースの監督を務めている。1970年生まれ、静岡県出身。

 

ごはんの話を全くしていない澤登さんの前回記事はこちら

 

森雅史 プロフィール

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

【関連リンク】

森マガ
サッカー、ときどきごはん : 森マガ
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Source: ぐるなび みんなのごはん
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