サッカーは自分を証明するものだった…田坂和昭が「人と違う見た目」から得たものとは【ごはん、ときどきサッカー】

人とは見た目が違っていた

子供のころから苦しかった

「有名になる」という気持ちがあった

そのために努力した

 

振り切れるきっかけがあった

そして今振り返る

どうして自分が乗り越えられたか

そんな田坂和昭にオススメの店を聞いた

 

「サッカーの田坂」と言わせてやろう

僕が苦しかったときはいっぱいありますね。

 

幼少期から苦しい思い出しかないですよ。僕は2歳ぐらいで髪の毛が抜けたんです。Jリーガーになったあと、広島出身だから被爆した影響だと一時期報じられたんですけど、それは関係ないんですよね。生まれたときは髪の毛があったから、病気だと思うんです。

 

結局、原因は調べませんでした。幼稚園ぐらいまではいろんな病院に行ってたんですよ。親に連れられて、広島の中でもいい病院と言われるところに行ったり、九州や大阪にも行ったり。でもそういうのがイヤで、面倒くさくなっちゃって止めたんです。

 

今はスキンヘッドの人を街で見かけるのは珍しくないですけど、僕たちの年代ってあまりいなかったじゃないですか。珍しかったから、小さいころからずっとバカにされてたような感じで言われてました。まず最初に苦しいと思ったときって、そこですね。

 

だから小さいころから頭を隠すために帽子をかぶって行動してました。広島カープの帽子かぶって。そのころ思ってたんですよ。「大人になったらどうなるのかな」「俺、将来サラリーマンになって、カープの帽子かぶってるのかな」って。

 

帽子がカープになるくらい広島は野球が盛んだったんですけど、僕はなぜかスポーツ少年団やリトルリーグのチームに行こうと思わず、サッカーを始めたんです。きっかけは休み時間にサッカーをやってるときが楽しかったからですね。

 

それで小学校3年生のときに小学校のチームに入ったんです。そうしたら監督に3年生のときから6年生の試合に出ろって言われたんですよ。それで自分たちの小学校で試合をやるときは行ってました。だけど他のチームの選手が「え?」みたいな感じで僕を指さすんですよ。

 

そういうのがあったから、対外試合で他の学校に行くのはイヤでした。いつもごまかして他の学校の試合には行かなかったんです。親には「試合に行く」と言って、他のところに遊びに行ってました。

 

だけどあるとき、コーチから「明日絶対来いよ」ってユニフォームを渡されたんですよ。「これはもう行かなきゃいけないなぁ」と思って行ったんです。行ったら案の定やっぱりいろいろ言われました。

 

でも、そこで負けん気とか反骨心が出てきたんです。相手に「サッカーで勝ってみろよ」みたいな感じでどんどん点を入れました。それから試合には行くようになりましたね。

 

そのころはちょっと大変でしたね。喧嘩もしました。何か言われたら試合中そいつを削りにいってたし、「サッカーで勝ってみろ」って言ってたし。サッカーは自分を証明するものだったんです。

 

うちの親は変に気をつかうようなことはなかったですよ。僕が全国大会に行ったり、選抜チームに選ばれるのは喜んでましたし、試合をずっと陰で見てました。

 

1983年、小学校6年生の時に広島FCという選抜チームで第7回全日本少年サッカー大会に出ました。そのとき決めたんですよ。「オレ、サッカーで有名になろう」って。「サッカーで有名になって、『サッカーの田坂』って言わせてやろう」と思ったんです。

 

だけどその時はまだ日本にプロサッカーはなかったんで、どうするか考えて「サッカーで有名になるためには、テレビに出なきゃダメだ」と思ったんです。全国高校サッカー選手権大会がテレビで大々的に放送されてましたから、まず選手権に出ようって。

 

ただ、広島で選手権に出ても全国放送があるところまで勝ち進めなくて、テレビに映らないと思ったんですよ。それで中学校では最初、学校の部活入ってやってたんですけど、辞めてクラブでプレーすることにしました。広島大河FCっていう、木村和司さんや森島寛晃さんの出身クラブに入ったんです。

 

広島大河FCからは毎年何人か、静岡の東海大第一高校(現・東海大学付属静岡翔洋高等学校)に行ってたんです。静岡の高校なら選手権で優勝する可能性だってあるから、テレビに出て有名になれるかもしれないじゃないですか。そういう目標があったので、電車とバスを乗り継いで1時間ぐらいかけて広島大河FCに通ってました。

 

中学1年生のとき、全国中学生大会に広島代表として出て優秀選手に選ばれたんです。大会後に、その優秀選手を全国から千葉の検見川に集めて強化するセントラルトレーニングセンターという合宿に呼ばれました。

 

その合宿でコーチと面談したとき、言われたことは今でも覚えてますね。「これまでもお前のような容姿をした奴はいたけど、なかなか有名になれなかった。お前は絶対有名になれ。みんなの代表として、お前は頑張れ」って。

 

何人も僕と同じような人はいたらしいんですけど、スポーツがそれほどできなかったらしいんです。みんなの前に出るって本人がやっぱりキツいですからね。あの言葉は忘れられないですね。

 

1986年、中学3年生のとき監督に「静岡に行かせてください」ってお願いして、東海第一に行くことになりました。

 

その1986年、木村和司さんが国内プロサッカー選手第1号になったんですよ。広島大河FCの先輩だったんで身近に感じて、「将来はサッカーで飯が食える」「絶対サッカーで有名になろう」「カープの帽子をかぶったサラリーマンじゃなくなる」と思ってました。だから練習はとことんしましたね。

 

しかも入学直前の1987年1月8日、東海大一が選手権で初出場・初優勝するんですよね。2年生に澤登正朗さんとアデミール・サントス(現・三渡洲アデミール)さんがいて。だから「自分も絶対テレビに映ってやる」と思ったんです。結局、自分は全国大会に出られなかったんですけど。

 

髪の毛がないことに対していつ吹っ切れたっていうと、やっぱり高校行ってからですね。

 

僕の目標の選手はずっとノボリ(澤登)さんなんですよ。それまでも、僕は同じ学年に藤田俊哉や相馬直樹がいて、彼らとは小学校のときに選抜チームで一緒にプレーしてたんです。けれど、やっぱりノボリさんを見たときに一番衝撃を受けました。「こんなパスを出す人がいるんだ」「こんな上手い人がいるんだ」と思って。そこで「上手くなりたい」って気持ちが変わりましたね。

 

だから他のことはどうでもよくなって、高校の時は帽子なんか全然かぶってないです。ちょっと買い物に行くとか、ご飯を食べに行くにしてもかぶってなかったですね。

 

1992年、大学3年生のときにJリーグができて、反骨心よりは本当にプロでサッカーをやりたいって目標が変わっていたんですよ。そして大学を卒業して、湘南ベルマーレでプロになれました。

 

現役時代、僕と同じ病気の子供を持つ親から手紙をもらっていたんですよ。試合を観に来てくれた子もいました。覚えているのは、お母さんが責任を感じていて、「どうしたらいいですか?」っていう手紙が来たことですね。

 

僕は「じゃあ今度この試合に来てください」って広報を介して返事をしたんです。それで試合後に直接会って、「やっぱり親が元気出すことですよ。うちの親は全然気にしてませんでした。だからご両親がどの子もみんな特性があると思って元気出すのがいいんじゃないですか」って偉そうに言ってたんです。

 

今でこそファッションでスキンヘッドの人っていますし、僕もプロになってから「それ、剃ってるんじゃないんですか?」って聞かれたこともありました。でも昔はより深刻なことだったと思うんです。「自分の娘が髪の毛なくてカツラかぶってるんですけど、田坂さんは病院とか行かれたんですか?」みたいな手紙もあって、その時は返事を書いたかな。

 

みんなそれぞれ特性があって個性があるからスキンヘッドも本当はそうなんです。ただ、僕は小さいころそう思えなくて、「有名になって見返してやろう」としか考えてなかったですね。あとはやっぱりサッカーがそういう苦しいときを乗り越えさせてくれたと思います。

 

プロになってからは、逆に楽しいことのほうが多かったですね。もちろん負けたことや選手を辞めるときはつらかったんですが、子供のころほどじゃなかった。すぐ次の目標に向かって進むことが出来たんで、つらかったことってあまり覚えてないです。

 

現役時代は9年間でした。最後はやっぱりもう体が動かなかったんですよ。湘南のときは3年連続全試合フル出場しました。若いころはそれくらいできたんすけど、清水エスパルス、セレッソ大阪と移籍して、30歳近くなってボロが出てきて、最後、グロインペイン症候群(脚の付け根周辺に痛みが生じる症状)になっちゃって。

 

リハビリしてピッチに戻ってきたんですけど筋肉がすごく落ちちゃって、もう自分の思うプレーはできなかったですね。試合に出られるかどうかじゃなくて、自分が「ここでボールを取れる」と思っても足が出なかったり取れなかったりして、そういう自分がイヤだったんですよ。だから現役時代から指導者の勉強をしようと思ってました。

 

実は日本代表に選ばれた26歳のとき、フィリップ・トルシエ監督から「将来何になりたいか」って聞かれたんです。「サッカーで仕事をしたいし、指導者にもなりたい」と答えたら、「早くやってもいいんじゃないか」って。「代表に選手を呼んでおいて、それは普通言わないだろう」と思ったんですけど、その言葉は今でも鮮明に覚えてますね。

 

だから自分のプレーに対してストレスを感じるようになった2002年、31歳のときにちょっと早かったかもしれないですけど「もう現役を辞めて10年間勉強しよう」と思ったんです。そして「10年後には、同世代よりも早く監督をやろう」と思ってました。実際、37歳で監督になれましたね。

 

現役時代より苦労が多い指導者という仕事

現役時代よりも監督になってからのほうがつらいですね。今でも覚えているくらいのつらいことがいっぱいあります。

 

2011年、大分の監督に就任したとき「これからの時代は勝つために走るしかない」と思ってました。その年に、湘南とホームで対戦した後に湘南の反町康治監督、チョウ貴裁(キジェ)コーチ、大倉智社長と大分のホテルで飲んだんです。

 

そのときにはもう「走るサッカーで昇格する」と言ったんです。「走る」って日本人にできるサッカーですよ。技術は一気に上がらないけど、走る距離を上げるのはある程度できるようになるから。

 

そして2012年、「走るサッカー」でJ2の6位になって「J1昇格プレーオフ」に進出したんです。「J1昇格プレーオフ」は3位から6位のチームがトーナメントで争うんですけど、90分を終えて引き分けだと下位のチームの負けになるんですよ。だから6位のチームは2連勝しなければ昇格できないというレギュレーションなんです。

 

それでも準決勝の京都サンガ戦に4-0、決勝のジェフ千葉戦にも1-0で勝ってJ1行きを決めました。ところがそこからが大変でしたね。チームにとっても僕にとっても初めてのプレーオフから昇格だったんで。

 

昇格するのとしないのとでは選手が移籍してくるかどうか変わりますし、何よりもシーズンの最後に決まるから選手獲得が後手に回るんですよ。そういう状況になるというのもよく分かってなくて。

 

だから2013年はせっかくJ1に昇格したんですけどボロボロの戦いでした。2013年以降、プレーオフに進出したクラブは僕たちを見て学んだみたいで、プレーオフ前からいろいろ準備してましたよ。

 

それから2015年にシーズン途中で清水の監督になったときもつらかったですね。

 

7月2日にコーチとして清水に戻って8月11日に監督になったんです。監督になった時点でシーズンの残り期間が短かったんで、チームをよくするための時間があまりなかったんです。それに選手はフィールドプレーヤーで30人以上いて、その練習をどう組み立てるかシーズンの途中で調整しなければいけなかったし。シーズン前のキャンプからいたらまた違ったんでしょうけどね。

 

いい選手が多かったんですけどなかなか勝てなかったですね。ピーター・ウタカ、ヨン・アピン、ミッチェル・デューク、大前元紀、本田拓也、鄭大世と、個人的には本当にいいやつばっかりで、みんな今でも連絡くれます。

 

ただ個人としてはいいんですけど、なかなかチームがまとまらなくて。勝てないから負の連鎖が連なっていくんです。僕の力量不足だったかもしれません。

 

そのころ家族はまだ大分に住んでいて、週1回清水から大分まで電車で6時間ぐらいかけて帰ってたんです。何時に出発できるか時間が読めなかったのもあって、飛行機じゃなくて新幹線で小倉まで行って、そこから「ソニック」か「にちりん」に乗り換えて、夜中の2時ぐらいに着いてました。そして朝、子供と一緒にごはんを食べて、お昼には清水に向けて出発するんです。

 

その往復がいいストレス解消になってました。新幹線の中で、次の試合の準備をしたり選手に見せる映像作ったり、ずっと1人で考えられる時間になりましたから。あれがもし清水のホテルにずっと1人でいたら気が滅入ったでしょうね。

 

2015年で清水を辞めて、2016年にJ2の松本山雅のコーチになり、2017年にJ3の福島ユナイテッドの監督になりました。そして2019年にJ2の栃木SCの監督になったんですけど、その1年目は本当にしんどかったですね。

 

最終節でジェフユナイテッド千葉に勝ってギリギリJ2に残留できたんですけど、降格した鹿児島ユナイテッドと勝点は一緒で、得失点差でJ2に残れたんです。

 

今にして思えば清水の経験がよかったんだと思います。栃木もフィールドプレーヤーだけで34人いましたからね。それをどうやってさばくかとか、ベテランの大黒将志や寺田紳一がいたので、彼らをどう扱うかとか、清水のときの経験が生きました。

 

栃木のときに気を遣ったのは、どうやって軌道修正させるかという点でした。清水の時はその軌道修正ができなかったんですよ。栃木では、時間がかかってもいいから紅白戦で全員を使ってたんです。そういうことをいろいろやってベテランと若手をうまく融合することが出来たと思います。

 

 

勝てないときは「監督の家族」も苦労する

妻とは僕がS級コーチライセンスを取りに東京に行ったときに知り合ったんです。僕が選手だったということは知らなかったですね。逆にそれがよかったんです。

 

小さいころは「サッカーの田坂」になりたいと思ってましたけど、Jリーガーになったり日本代表に選ばれるとちょっと見え方が違ってきて。ちょっと偉そうかもしれないんですけど、「サッカーの田坂」はある程度知られるようになったと思うんです。でも、そういう人に知られた人間としてじゃなくて、普通の人として妻は見てくれていたから。

 

妻は最初、サッカーに興味はなかったけど、今は試合を見に来ますよ。試合中はギャーギャー言ってるらしいんですけど、家に帰ったら一切その話をしないんです。

 

子供は3人います。長女は僕が清水の長谷川健太監督の下でコーチをやっていたときに生まれて、そこからずっと一緒に連れて回って、大分も松本も、ずっと転校してついてきてくれました。他の監督の家族もみんなそんな大変な思いをしてると聞きます。それがイヤでS級コーチライセンスを取っても監督にならない人もいるんですよ。

 

長女が生まれたとき髪があってホッとしました。妊娠したとき妻と話をしたんです。僕、選手時代に1回自分の体を調べてもらったことがあるでんすよ。それで遺伝しないという診断を受けてたんです。「一応調べてもらったんだけど、正直僕は不安だ」と言いました。

 

うれしい反面、ちょっと怖かったから正直にそう思っていると言いました。そうしたら妻は「大丈夫」って。「もしなかったらなかったでいいじゃん」みたいな感じだったんです。妻は強かったし真面目だし、そういうところも助けられています。

 

ただ、監督の家族というのは試合結果でいろいろ言われるんですよね。大分にいたとき、長女は「お前、昨日トリニータ負けただろう」って言われて帰ってきたりとか。それから車が静岡ナンバーだったんで、妻が買い物をしていると車に戻ったとき、「これは田坂の車だろう。お前は田坂の嫁だろう」って。妻は「だったら何が悪いの」って言い返してたらしいですけどね。そういう強さを持っている妻でよかったと思います。

 

そんな家族が、栃木の1年目はこれまでよりもプレッシャーかかってると感じましたね。そのとき家族は茨城に住んでいたんで週1回帰ってたんですけど、顔色がよくないんです。僕といるときは普通にしてくれていましたけど、思ったより勝てなかったんで大変だったと思います。

 

うちではサッカーの話なんてまったくしないんですよ。でもみんな結果はもちろん知ってますし、試合も見てますよ。「すごく気をつかってるな」って思ってました。家族の支えがあるから監督が出来るんで、その家族が青い顔をしてるのはきつかったですね。

 

最後の最後に残留が決まって「奇跡の残留」と言われましたけど、家族もちょっと尋常な緊張じゃなかっただろうと思ってました。苦しいときもサポートしてくれて、一緒に乗り越えてくれてるんで、妻と家族がいなかったら気持ちを強く持てなかったと思います。

 

振り返ってみると、一番苦しかった幼少期にくじけてたらプロにはなってないでしょうし、妻とは出会ってないでしょうね。幼少期は親が助けてくれたと思ってるし、監督になってからは妻がいろいろな面で支えてくれました。結局、僕が苦しいときをどうやって乗り越えたのかと考えると、自分一人で乗り越えたんじゃないと思いますね。誰かしらサポートしてくれたと今では思います。

 

今はもう1回監督をやりたいという気持ちもあります。だけど今後監督をやらないんだったらサードキャリアを何にしようかというのは迷ってます。

 

フロントに入るのも1つだし、これまでの経験を生かして、人それぞれの特性をうまく活用しながら自分の得意なスキルや性質を生かせるようなことができないかと思ってます。今、そういうレポートを作る会社、人材教育みたいな会社にも関わっていて、そういうのもいいかと思っています。

 

ただ、しばらくは充電期ですね。選手を辞めて以来、すぐコーチになって監督になって、ずっと休んでなかったので。だからちょっと1回、外から見るのもいいかと思って。

 

今の状態を「サバティカル」と言ってるんです。「サバティカル」って、学者の人がやるような、研究なんかを離れた長期休暇のことですね。やってることから離れて、違う目線で見て、もう1回戻る。

 

僕はこれまでずっとサッカー界、Jリーグの組織の中にいたんで、今は少し違う目線からサッカーを見てますし、ちょっと目を休めてる、神経を休めてます。そしていいタイミングがあったら、またどこかのチームを指導してみたいというのもありますが、これは縁やいろいろタイミングがあることなので。

 

今も外に行くときは帽子をかぶってますよ。けど、それは「田坂があそこにいた」と言われるのを避けるためです。スキンヘッドの人がいると僕だと思われちゃうこともあるんです。この前、知り合いから「お前、六本木にいただろう」って言われたんですよ。行ってるわけないじゃんって(笑)。

 

「広島風お好み焼き」ではなく「お好み焼き」

僕、今日は食べ物の取材だと思ってたんです(笑)。

 

僕はね、やっぱり広島のお好み焼きが食べられるところを勧めたいですね。僕にとっては「広島風お好み焼き」じゃなくて、広島が「お好み焼き」で、大阪は「関西風お好み焼き」ですからね。

 

中にそばかうどんが入ってないとダメです。そばを2つ入れてそばダブル、うどんダブルを食べる人もいるんですけど、僕は大体ミックスするんです。ソースはおたふくソースで、それは外せないところです。

 

ただ、ここ2年は新型コロナウイルスの影響で外食を控えてたんですよ。そうしたら恵比寿の大好きなお好み焼き屋さんがなくなってしまったんです。それでコロナ禍が収まってきたら新しいところに行ってみたいと思って探してたんですよ。恵比寿の「お好み焼き ぶち 恵比寿本店」という店なんですけど、ここは広島の人が作っていて、みんな美味しいって言うんです。

 

それから福島にいたとき行ってたお好み焼き屋さんが、会津若松の「廣(ひろ)」っていう店です。ここは間違いないです。本当にすごく美味しいです。広島の人が作ってて、広島の人がよく集まるんです。会津広島県人会で大評判でしたね。広島でお店を開いたとしても、美味しいと評判になると思います。

 

会津若松に行ったときはぜひ行ってみてくださいね。

 

それから、今、厚木の「はやぶさイレブン」という社会人のチームへ週に数回アドバイザーとして行ってます。厚木に行ったとき寄る店が「さかい鳥」ですね。

 

ここのオススメはコースの焼き鳥で、いろんな種類の焼き鳥を出してくれるんですけど、どれも美味しいんですよ。それから忘れちゃいけないのがデザートの小豆アイスです。この小豆が北海道産で最高ですね。練習後に食べて元気を回復してます。こちらもぜひ行ってくださいね。

 

紹介したお店

お好み焼き ぶち 恵比寿本店
〒150-0022 東京都渋谷区恵比寿南1-7-8 ニューライフ恵比寿2F
4,000円(平均)
廣
〒965-0016 福島県会津若松市中島町2-24
さかい鳥
〒243-0018 神奈川県厚木市中町4-1-11 山中屋ビル2F
7,500円(平均)

※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください

 

田坂和昭 プロフィール

東海大学第一高校、東海大学を経て1994年、ベルマーレ平塚に入団。同年、Jリーグ新人王を獲得、1995年には日本代表に選出され頭角を現す。清水エスパルスやセレッソ大阪を経て2002年に引退。引退後は指導者として大分トリニータ、清水エスパルスなどを指揮した。1971年生まれ、広島県出身。

 

森雅史 プロフィール

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

【関連リンク】

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Source: ぐるなび みんなのごはん
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