ここでサッカー人生終わるのかと思ったことも…日本へ帰ってきた昌子源の心の中【ごはん、ときどきサッカー】

©ガンバ大阪

 

いつも笑顔を浮かべている人は

苦しんでいることが傍目にはわかりにくい

サービス精神旺盛なプロサッカー選手なら

なおのこと苦悩を表に出そうとはしない

 

でもふと見せる表情を観察すると

様々な心境が垣間見えることがある

3年間苦しんできたという昌子源に

その思いとたくさんのオススメの店を聞いた

 

「どこか変やな」という感覚がずっと続いた

僕のサッカー人生で一番辛かったことは……やっぱりガンバ大阪に来たときに抱えていた右足首のケガですね。ここでサッカー人生終わるんやなって思ったりもしましたから。

 

2019年9月、フランスのトゥールーズでプレーしていたとき試合中にしたケガなんですよ。僕は筋肉系のケガってあまりないんです。それがちょっと防ぎようのないような場面で足首をひねったんです。

 

捻挫ってサッカーやってれば何十回もあるじゃないですか。でもそのときは普通の捻挫じゃないのが自分でもわかって。今までにない感覚でした。

 

捻挫ってだいたい患部がめっちゃ腫れますよね。それがまったく腫れなかったんですよ。でも痛くて立ち上がれないぐらいひねって、映像で見てもグリっていってるんです。

 

けれど、ちょっと腫れるくらいで、象さんの足首みたいになるような内出血も少なくて。傍から見たら「全治1、2週間ぐらいじゃない?」みたいな。ただ自分の感覚では全くそうじゃなくて。蓋開けてみたらやっぱり、めちゃくちゃ長くかかりましたしね。

 

ドクターに言われたんですけど、僕は足首が人より柔らかいから可動域が広いらしいです。それはいい面もあれば、悪い面もあります。そのときは靱帯は伸びて耐えてたんですけど、骨は削られてたんですよ。

 

柔らかいが故に、骨が折れる寸前までいったり、腱が切れる寸前まで伸びたりとか、マイナスに働いたところもありますね。このときのケガは足首の柔らかさが悪い方向に作用しました。

 

時にはポキッと折れたほうがいいケースというのもあるらしいです。靱帯がブチッといったり骨がポキッといっちゃったらオペしかないから。だからそのときの僕のように靭帯が伸びきってたら、プッツンと切れたほうがよかったという考えもあります。オペしてくっつけて、リハビリしたら元に戻るから、ぐらいの感じなら復帰までの時間も長い目で見たら早かったと思います。

 

だけどチームはそういう状態だって分からないから、ケガをして最初の1ヶ月はクラブに行ってアイシングして終わりで、「え? 何かないの」っていう感じでした。だから自分で日本代表や鹿島アントラーズのトレーナーに連絡して「これしたらいいよ」っていうのを教わりながら、自分でずっとやってました。

 

苦しかったけど、耐えられたのは家族が一緒にフランス行ってたからだと思います。それでもストレス発散に異国の地は難しいですよね。街に出かけようかと思っても足痛いから行けないし、行ったとしてもフランス語ってなると、勉強はしてましたけど難しいし。僕はまだ英語だったら多少は話すんですけど、でも英語が全くダメなお店もあるし。

 

あとフランスに行ったことある日本人はみんな分かると思うんですけど、フランス人って結構最初冷たいんですよ。妻は僕がケガしたから買い物には1人で行かないといけなかったんですけど、そんなとき突き放されるような冷たい接客されたらやっぱりメンタル的に厳しくて。そういう生活面でフランスは思い通りではなかったですね。

 

それで2020年2月に日本へ帰ってきてガンバでプレーすることになったんですけど、シーズン中はやっぱり「どこか変やな」という感覚がずっと続きましたし、無意識で患部を庇ってしまうのか、違う部位が張ってきたりもしました。

 

それで2020年の12月にオペすることにしたんです。その前にいろんな方に連絡しました。みなさんが大体口揃えて言ったのは、半年から1年ぐらい経ってやっと本当の自分の足首になったって。長くて1年ぐらいかかったっていう人もいました。

 

僕もオペして1年経ったぐらいから、やっと自分の足首の感覚になっと思います。足首の感覚が戻るまで、ケガをした日から結局3年ぐらいかかりました。今回、しっかりケガを治したので選手寿命は延びたかもしれないですよね。

 

ただオペはしましたけど、迷いましたよ。選手で自分の体にメス入れるって結構怖いですからね。特に足首とか膝はね。

 

10人中8人ぐらい「やったほうがいい」と言ったとしても、2人が「手術は合わなかった」と言ってると、やっぱり「どうしよう?」ってなりますよね。一概に「手術したほうがいいよ」とは言えないんですよ。僕はよかったけど、もちろん合わない人もいるから。

 

だから同じように苦しんでる人がいたら、「オペしたほうがいい」じゃなくて、「迷ってても先はないし、自分の信じた決断をやるべきだ」と言うでしょうね。「自分は手術しません。このまま行きます」というんやったら、それを信じたほうが絶対いいほうに転ぶから。

 

この一番辛かったケガの3年間を乗り切れたのは、間違いなく家族のおかげですね。やっぱり僕は家族が一番だから。あとはやっぱりガンバのメディカルスタッフが本当に尽力してくれたからですよ。クラブがみんな手助けしてくれたんですけど、特にメディカルスタッフには本当にもう感謝、感謝ですね。彼らの助けなしに1人でリハビリをしていたら、途中で心が折れていたかもしれないです。

©ガンバ大阪

 

中学3年のときに「サッカー辞めたい」と言った

ケガをしてなくてもサッカーをやってなかった時期は他にもあります。中学3年生のとき。でもそのときは別に辛いとは思ってなかったんです。別に好きじゃないからやってないみたいな感じだったし。父はS級コーチライセンス持っていてコーチのインストラクターでもあるんですけど。

 

プロになったあと、何回か聞かれたことがあるんですよ。「小さいころにお父さんに何を教わったの」とか。でも僕は父親にサッカーのことで何か言われたことがないんです。

 

僕の試合があるけど親が仕事してて見に来られなかったとき、家に帰ってくると父は「どうやったか? 楽しかったか?」と聞くだけでした。もちろん父が見に来るときもあるんですけど、「源、あのプレーはよくない」「源、あそこはダメだ」とか言われたことがないんですよ。父からはボールを蹴る楽しさは教わったけど、プロになるために「あれをしろ」「これをしなさい」というのは一度もなかったですね。

 

だから中学3年のときに「サッカー辞めたい」と言ったときは「お前の好きなことをやれ」と言ってたし、「やっぱりもう1回サッカーやりたい」と言ったら「そうか、がんばれ」っていう感じやったんで。あれは本当にありがたくて、僕もそうやって息子に接したいと思ってます。

 

そんないい環境にいたんですけど、中学3年の時はサッカーが楽しくなかったですね。ガンバのジュニアユースでプレーしてたんですけど、バリバリ試合に出てたわけじゃなかったし、同級生には宇佐美貴史というどエラい存在がおって、本気で挑んでも逆立ちしても勝てないし。

 

「ユースに上がれるわけもない」と思って、友だちと遊んでたほうが楽しいと思ってたような気がしますね。ただ高校でまたサッカーをやることになりました。そこからよく日本代表までいったと自分でも思いますね。もしかすると自分が一番そう思ってるかもしれないです。

 

高校は鳥取県の米子北高校に進学したのですが、当時の監督さんとコーチの方とご飯を食べに行ったことあるんですよ。2018年ロシアワールドカップが終わったあと、高校に「応援ありがとうございました」って挨拶に行って、そのとき初めて監督さんたちと食事することになったんです。 

 

そこで先生たちに「僕がプロになると思ってましたか?」と聞いたら、「思うわけねぇだろ」と言われました。いや、もちろん「お前はうまかった」「やっぱりJユースリーグアカデミー出身なだけあった」と言われたんですけど、「それでもプロになるとはこれっぽっちも思ってなかった」って。そもそもうちの高校からはプロ選手が出たこともなかったし、プロからのオファーとか無縁な学校やったんで。

 

でもその高校でDFに転向させられたことがよかったと思うんですよね。今はDFじゃなかったらプロになってないと思いますね。それは言い切れます。けれど監督に「なんで僕をDFにしたんですか?」って聞いたら、別にそんな深く考えてなかったみたいに言ってた気がします(笑)。

 

DFになったのは高校2年の夏、インターハイの前でした。当時はイヤでしたね。最初はやっぱり「守る? なんやそれ?」「点取らないと勝たないスポーツやのに守って何が楽しいねん」「点取ってヒーローにならせてくれ」みたいな。でも1対1に勝ったりとか、思いっきりスライディングして止めたりとか、そういうので楽しくなってきたんだと思いますね。

 

その2年生の夏のインターハイで準優勝したとき、鹿島アントラーズのスカウト担当部長の椎本邦一さんが僕を見て、そこから1年間僕にバレないように追いかけてくれてたんですよ。大きな大会だけじゃなくて、なんでもないような練習試合も見に来てたらしいです。2年生の僕には何も言わなかったんですけど、2年生のときにはもう監督には挨拶してたということでした。

 

そして1年経った3年生の夏に椎本さんから名刺を渡されたんですよ。今でもそのときのことは覚えてます。ただ、全然意味が分かんなかったですからね。「鹿島アントラーズ、ってあのアントラーズだよな」「その部長がオレになんの用事?」みたいな。

 

監督もそこまで「お前チェックされてるぞ」とか言わずに、黙ってくれてました。それって、たぶん僕の性格的に目を付けてもらってると知ったら調子乗ってしまうからじゃないですかね。

 

それで2011年にアントラーズに入ることになったんですけど、僕は2007年から3連覇してたのを知らなかったんですよ。チームは知ってたけど、どんだけすごいかって知らなくて。2010年はタイトルを取れてなくて、2011年はタイトルが義務付けられてる雰囲気でのスタートでした。

 

アントラーズでは2年目の2012年から少しずつリーグ戦に出るようになりました。そうしたら、まだ18試合しか出ていなかった2014年4月、アルベルト・ザッケローニ監督から日本代表候補合宿に招集されたんです。それから代表を意識するようになりました。

 

でもザックさんのときに代表に呼ばれたのはその1回だけで、ハビエル・アギーレ監督のころからはコンスタントに招集されるようになったんですけど、なかなか試合には出してもらえなくて。結局デビューできたのは2015年3月31日のウズベキスタン戦でした。

 

最近ね、特に森保一監督になってから特にそうですけど、日本代表に初招集で初出場とかうらやましすぎますよ。僕はどれだけベンチにおったか。僕が日本代表に行ったとき教えてもらったのは「代表はそんなチャンスを与えられる場じゃない。自分でチャンスをつかんでいくところ」「2試合あるから1試合は確実に出られるとかいう場所じゃない」みたいなことでした。

 

森保監督はきっと呼ばれて出番がない選手の気持ちとか分かってるんですよ。だから今の選手はうらやましいと思いますね。

 

ただそうは言っても、僕が代表の呼ばれてたころのセンターバックって、吉田麻也さん、森重真人さんとか、今でもすごいけど当時もすごかったですからね。だから「なかなか出番ないなあ」と思いながら「腐らずやろう」とも思ってました。

 

こうやってサッカー人生振り返ってみると、アントラーズに入って試合に出るようなってからは割と順風満帆っていうか、出る大会ではタイトルが獲れるようになったし、ヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)も3回獲ったし。

 

今回苦しんだのは右足首だったんですけど、鹿島のときに1回左足首をやったことがあって、そのときは復帰まで3ヶ月かかったんですけど、今回の足首のケガを経験したら「かわいいもんやな」って思うんで。ケガしてる間は子供と遊べるわけじゃないし、どこかに行けるわけじゃないし、ひたすら痛いだけですからね。

 

それから辛かったのは2018年ロシアワールドカップですかね。ベスト16のベルギー戦では2-0から逆転されましたし、グループリーグのセネガル戦では自分のところを狙われてると特に思いましたし。

 

でも今考えると、悔しかったけど、それでもやっぱり楽しさもすごく感じられた大会でしたね。自分のサッカーキャリアを振り返った中では、やっぱり今回の足首のケガに比べると全然楽しかったし。

 

これからの目標は、プレーヤーとしてはまず第一線でやるということです。もちろん体が言うことをきかない年齢に入ってくるんで、そういう中でも経験含めカバーして、若いときよりいい選手になったと思われるようにやっていきたいと思いますね。

 

経験という意味では、2018年のベルギー戦で、あの最後のカウンターを受けたシーンを振り返ると、今の自分ならもっとできたっていうのは思いますよ。今だったらGKティボ・クルトワがボールをキャッチしたら、すぐクルトワの前に立ってたと思いますね。イエロー覚悟で邪魔したでしょうね。あそこで体を当てればカウンターはなかったんじゃないかと思いますからね。

 

本当、一瞬の気の緩みで点を入れられるんだって痛感しました。ただ、一度経験してたらもうそこからはどうすればいいか分かりますからね。

 

今年のカタールワールドカップもね、現時点で全然呼ばれてないから出場するチャンスは限りなくゼロに近いと思うけど、でも1パーセントでも残ってるんだったら、完全にゼロじゃないんだったら諦めるわけにはいかないし。

 

今年で30歳になって、いろんな人が「30歳は1つの節目」と言うんですけど、僕の中で30歳はプラスの節目であって、ここから伸びていくというのが僕の計算なんで。円熟味の増したもう一段階素晴らしいプレーヤーになるための節目にできればと思っているんです。

 

それに今は選手寿命が、特にセンターバックはすごく伸びてきてますし。ヤット(遠藤保仁)おじいちゃんや長友佑都おじいちゃんあたりもまだまだがんばってくれてるから、自分もまだまだでしょ。

 

鹿島時代に通ったイタリアンとお寿司屋さん

僕ね、ガンバに来たのが2020年で、そのときにはもう新型コロナウイルスの影響があって、ほぼ大阪で外食してないんですよ。

 

僕は結構「食」好きで、東京でもよくご飯食べに行ってたんですけど、大阪でそれができてないんですよ。大阪には美味しそうなところがたくさんあるのに残念です。だから今回紹介するのは鹿島時代に行ってたレストランのほうが多いんですけど、それは勘弁してください。

 

まず鹿嶋市にある「Bistro Nori-Na(ビストロ ノリ・ナ)」という家族で経営してるイタリアンの店です。鹿島の選手は何人もお世話になってるんですよ。本当によくしてくれて、いつもはパスタやハンバーグを食べてるんですけど、毎日外食してた独身のころは健康に気遣ってお魚にお味噌汁とか、野菜が多い料理なんかも作ってくれてました。

 

おすすめの料理はマジでありすぎます。全部うまいですからね。いろんなパスタやハンバーグがあるんですけど……やっぱりアラビアータかな。今までいろんなとこでアラビアータ食べてきましたし、高級なイタリアレストランにも行きましたけど、アラビアータに関してここを超えるのに出会ったことないですね。

 

次は茨城県潮来市にある「ITALLIAN GARAGE(イタリアンガレージ)」という、これもイタリアンですね。潮来駅の真下にある店です。ここも家族で経営してて、鹿島の選手も、ジーコさんなんかもよく行ってました。マスターがピザ職人で、ちゃんとした石窯で焼いた本格的なピザが食べられます。ピザを食べるならこの店ですね。

 

子供と行ったときはクアトロフォルマッジっていう、チーズがいっぱい乗って蜂蜜かけたりというピザにするけど、大人だけで行ったらやっぱりトマトベースとか、生ハムが乗ったようなやつにします。ビスマルクっていうピザも美味しかったですね。

 

それから鹿島は黒潮と親潮がちょうど混ざるところで、近くに銚子港があるから魚介類が美味しいんですよ。そこの新鮮な魚をそのまんま持ってきてくれたお寿司屋さんが、茨城県神栖市の「すし処 ひらやま」です。

 

カウンターが5席ぐらいと、座敷が3つの、こぢんまりとした、もちろん回らないお寿司屋さんです。そこも夫婦でやってて、鹿島の選手もみんな行くけど、特に僕は近くに住んでたこともあってよく通ってました。22、23歳のぺーぺーの若造が、いっちょ前にカウンターの端っこ座って「大将、大トロ」とか言ってたんですけど、それをいつも笑顔で「あいよ」って答えてくれたんです。

 

そして誰か知り合いが鹿島に来ると、一番最初におもてなしするのはこの「すし処 ひらやま」でした。たとえば妻の両親が来たら、まず「すし処 ひらやま」に連れて行き、美味しい寿司を食べて、次の日とかに「Bistro Nori-Na(ビストロ ノリ・ナ)」に行くという感じです。芸能界の知り合いが鹿島の試合見に来るってなったときも、ここで会ったりしてました。

 

大阪では1軒、武井壮さんが大阪に来たとき教えてもらったのが心斎橋にある「焼肉 KITAN きたん」という焼肉屋でした。ここの焼肉はめちゃくちゃ美味しかったので覚えてますね。壮さんとは千鳥のノブさんも一緒に六本木にある寿司店に行ったこともあるんですけど、そこはカウンターしかない店でしたね。名前は言えないんですけど。

 

それから東京では知り合いの会社の社長にすごい店へ連れて行ってもらったことがあります。40人ぐらいしかいない会員の人だけが予約できる店で、中に入ったらその会員の名前が竹札に書いてあるんですけど、みんなすごい有名人ばかりで。そこで食べた寿司はちょっとよく分からんぐらい美味しかったですね。これはもう一生味わうことがない味だと思ってました。引退後の目標はその店の会員になることです(笑)。

 

紹介したお店はこちら

Bistro Nori-Na
〒314-0031 茨城県鹿嶋市大字宮中90-13
1,800円(平均)
ITALLIAN GARAGE(イタリアンガレージ)
〒311-2425 茨城県潮来市あやめ1-1-16
2,000円(平均)1,500円(ランチ平均)
焼肉 KITAN きたん
〒542-0081 大阪府大阪市中央区南船場4-11-22 B1
7,000円(平均)1,000円(ランチ平均)

※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください

 

昌子源 プロフィール

米子北高等学校を卒業後、2011年に鹿島アントラーズに入団。2014年にはレギュラーに定着し、日本代表にも選出された。2018年のロシアW杯ではレギュラーとして出場し、その後、仏・トゥールーズを経て2020年からはガンバ大阪でプレーしている。1992年生まれ、兵庫県出身。

 

森雅史 プロフィール

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

【関連リンク】

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Source: ぐるなび みんなのごはん
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