久住昌之×吉田類の昼酔い放談――何が楽しいのかわからないけど、何だかみんな楽しそうなお店がずっと好き

『孤独のグルメ』の原作者・久住昌之と、『酒場放浪記』の吉田類による昼酔い放談が実現! 

ふたりが選んだのは、創業半世紀を超える銀座の名店「大衆割烹 三州屋 銀座本店」だ。

ひとり飯とひとり飲みの二大巨星による放談、一体どんな戦い(?)になるのか? 

――意外にもおふたりが対談するのは今日が初めてなんですね。ドリームマッチが実現したような感じでうれしいです。

久住 ドリームマッチって、何の(笑)。大げさだなあ。類さんに最初にお会いしたのは、まだ移転する前の、中目黒の藤八。あそこで宴会をやったときにご一緒したんですよね。

吉田 『孤独のグルメ』と『酒場放浪記』というのはファンがカブってるみたいで。だから今までも2人で出てほしいという話は何度かあったんですが、ようやく今日実現しましたね。

久住 この間、福井県の敦賀で駅前の店に入ったら、いきなり類さんのサインがあって。こんなところにも来てるんだ……って。よさそうな店だなって思って入るともう類さんのサインが飾ってあった、というのは今までも何度かあって、ちょっと悔しいんですよ(笑)。「まごころ」というおでん屋さんなんですけど。渋い店だったなあ。

吉田 いい店です。

久住 福井だからサバ、ヘシコの刺身。日本酒もいいんですよね。

吉田 福井の酒は上等なのが多いですね。黒龍とか。(日本酒を注ぎながら)あ、ここ(徳利の、先が細くなった注ぎ口ではなく横の丸い部分)から注ぐのには意味があるんですよ。注ぎ口からやったら酒が切れる、縁も切れるから、縁が切れないように横で注ぐ。僕は高知の人間なんですが、これが土佐流の付き合い方なんです。

久住 へぇ! こないだ土佐も行きましたよ。みんな酒飲みで、美味しいものがいっぱいあって、いいところですね。

吉田 鰹のたたきはもちろん、鰹系は全部美味しい。

久住 僕は音楽系の先輩に教えてもらった「たに志」という店に行きました。

吉田 僕もよく行く店です。横丁のところでしょう?

久住 そうです、さすが。「たに志」はよかったですね、大将も愛すべき酔っ払いで。一度行ってとてもよかったから、先日また高知に行ったとき、入れるかなと思って「たに志」に電話したんです。そしたら大将、お店にいて電話には出たんだけど、「今日は休みなんですわ~」って。「そうなんですか、残念です」と言ったら「どこで飲んでるんですか? そっち行きましょうか!」って。僕たちが飲んでいるところに「行きましょうか!」って、なんで(笑)。こっちが行きたいって話なのに。

吉田 高知には、「バッフォーネ」というイタリアンがあるんです。東京から芸能人なんかも来てるみたいですね。ジェノベーゼが旨いんですよ。僕は、仕上げは必ずそこです。高知で飲む場合は3軒目くらいから酔っ払ってるんで、そのままずっといい気持ちで店を回って最後にジェノベーゼを食べて。麺だから太るじゃないですか。本当は食べちゃいけないんだけど、それを食べまして、その後にさらに屋台のうどんを食べて帰る。

久住 そうそう、屋台のうどんとか餃子とかがあるんですよね。僕は今まで4回くらい高知に行っているんですが、最初に行ったときに偶然に入った店も当たりでした。何も知らないで入った「葉牡丹」という居酒屋。

吉田 あれは代表的なお店です。高知の代表は「葉牡丹」。

久住 入って座ってすぐ、なんていい店なんだろうと思いました。

吉田 入ってすぐにカウンターがあるじゃないですか。あそこには名物店主がいたんですよ。今はちょっと体を壊してしまって店に出ていないんだけど、その親父がめちゃくちゃ面白い。あのあたりは、戦時中に空襲で焼かれる前は料亭、遊郭があったエリアなんですが、親父はそこで育った叩き上げの飲兵衛なんです。

 

野蛮な酒飲みを見て育ったから、僕はいい酒飲みになりたいと思っていた

吉田 今では考えられないけれど、昔の高知は子供のころから焼酎を飲んでいましたからね。家の土間には鉄釜のデカいのが置いてあって、鉄釜の上に甑(こしき。本来は底に穴が開いた形で、下から蒸気を通して蒸すための器のことだが、ここでは土佐和紙作りに使う高さ2mほどの木桶のこと)という容器がぶら下がってるんですけど、甑を下ろして中に三叉(みつまた)とか楮(こうぞ)とかを入れて蒸すんです。それが土佐和紙の原料になる。その甑を転用して、芋焼酎も作っていたんですよ。そういうのを僕は子どもの頃から見て育った。

久住 土佐和紙を作っているところで酒を造るって、すごい! 土佐和紙も取材したことがあるんですよ。だけどそんなこと何も言ってなかったな(笑)。

吉田 恥だと思っていたんじゃないかな。どの家にもひとつはあったから密造は当たり前の時代だった。酔っ払うとすぐ喧嘩を始めるような大人たちに囲まれて育ったから、そういう意味では非常に野蛮というか、ワイルドな田舎でしたね。子供のころからそんな酒飲みを見てきたので、僕はいい酒飲みになりたいって思ってました。別にそのころから酒飲みを目指したわけじゃないんだけど……たぶん深層心理の中にあったと思います。

久住 僕が四国の知り合いに聞いたのは、みんな議論が好きだと。議論の話題は何でもいい。駅前の駐輪場の形が良くないとか、それで本気で喧嘩したりするんだって。よそから来た客人は引いちゃう。で、翌日にケロッとしてるから昨日の喧嘩は何だったんだって(笑)。議論を肴に飲んでいるんですね。

吉田 土佐は自由民権運動の発祥の地だから、政治意識が高いんですよ。うちの田舎には極左と極右の両方がいたので、喧嘩するのは当たり前。飲んで大喧嘩する。だから小さい頃からそういう諍いはしょっちゅう見てました。親子喧嘩をするのでも、お父さんと息子が喧嘩すると鎌で斬り合うんですよ。

久住 すごい。

吉田 子供の頃の話ですが、親子が鎌で斬り合うんだけど、息子はお父さんにキレキレの新しい鎌を渡して、本人は錆びた古いのを使う。それで斬り合うので、近所では「あれは孝行息子や」ということになった。

久住 そんな! 錆びてるほうが怖いですよね(笑)。

吉田 でもそういうのが日常でした。久住さんの家はお酒を飲む家でしたか?

久住 両親は全然飲めないんですよ。親父は新潟出身で、兄弟には飲む人もいるんだけど、僕の親父は全然飲めなかった。

吉田 新潟は日本酒の消費量が日本一ですからね。90近くあるんでしょう、蔵元が。

久住 僕は父の生まれのせいか、新潟の酒が好きなんです。〆張鶴とか、吉乃川とか。父の実家は朝日山一本でした。昔、『夏子の酒』って漫画がドラマ化もされて話題になりましたけど、あれはクスミ酒造(久須美酒造)というところが蔵元なんですよね。字は違うけどクスミ。父親の実家があった新潟県三島郡輪島村(現在は新潟県長岡市)というところで造られていて。父の同僚の飲兵衛が、「あのクスミ酒造の亀の扇(『夏子の酒』に登場する日本酒)は手に入らないのか」って言うもんだから、親父は気が弱いから、飲めないのに同僚のために知りもしない酒造に「ありますか?」と聞きにいって「ない!」と一蹴されたという、気の毒なことがありました。

 

「何が楽しいのかわからないけど、みんな楽しそうなお店」にやられてしまう

吉田 いやぁ、でも今日は本当に嬉しいですよ。一緒に飲めるのを夢見てました。

久住 いやいやそんな。

吉田 いつも『旅人類』(吉田類さんが責任編集を務める北海道の旅情報誌)に執筆していただいていましたし。有難いなあと思っていて、乾杯したかったんですけど、今までなかなかそういう時間が取れなかったんですよね。

久住 北海道では結局会えませんでしたもんね。

吉田 久住さんがいろんなお店でお酒を飲むようになったのっていつごろからなんですか?

久住 20歳の時に大学に行きながら美学校(神保町にある芸術学校。久住氏は赤瀬川原平氏に師事)に通いはじめてからですね。でもそんなにいろんな店で飲んではいなかったです。大衆居酒屋の「駒忠」ばっかり。「ランチョン」だって金があるときだけ。赤瀬川さんも南伸坊さん(同じく赤瀬川原平氏に師事)もまだみんな貧乏で。でも一緒に話すと面白くて。ボクが面白いと密かに思ってたことを、同じように笑う10歳も20歳も上の人たちがいることが、うれしかった。冗談の応酬で、笑いっぱなしで安酒を飲んでましたね。

吉田 あの時代の文化を生きてきた人たちは、貧乏でも元気に生きられていたのがすごいですよね。みんな中央線に住んでいて。

久住 当時美学校の代表だった今泉(省彦)さんや、南伸坊さん、生徒もみんなで神保町で飲んで、中央線に乗って帰るんだけど、ひとりずつ降りていって、だんだん人が少なくなってくるんです。今泉さんが一番歳上だから、「小便したくなったから一緒に降りよう」って言われたら仕方ないから降りるじゃないですか。それで荻窪で降りるんですけど、結局また飲むわけですよ。当時は荻窪にも闇市みたいなのがあって、そこで初めて、受け皿のついた十二角形みたいなグラスに溢れるまで焼酎が注がれたのを飲みました。こんな飲み方ががあるのかって感心してたら、今泉さんが「これは受け皿がいっぱいになってないな、ここも表面張力になるまで注がないと」と。「なんなんだこのおじさんは」と思いました(笑)。

吉田 升酒のときもそうだけど、升の上にグラスを置いてそれが表面張力で一杯になって、升も表面張力でないとなんか納得がいかない。その気持ちはわからないでもない。

久住 年明けに火事に巻き込まれていまは休業中なんですが、大船の「観音食堂」の日本酒は、コップが升に入ってて、その升がさらに大皿にのってる。それで、コップはもちろん升もいっぱいになって皿もいっぱいになるまで注ぐから、完全に2杯分(笑)。面白がってやってるきがする。「観音食堂」も、さっき話した敦賀の「まごころ」も、お客さんがとても楽しそうなんですよね。何が楽しいのかわからないけど楽しそう。そういうお店にやられてしまいます。

吉田 わかります。大衆的な酒場ならではの特徴。よくわからないけどみんな笑顔でいられるって、今の時代本当に貴重じゃないですか。そういうところにずっと出入りしてて、それが『孤独のグルメ』にもつながったんですね。

久住 僕はずっとこういう店が好きなんですよ。今日のここ(三州屋 銀座本店)も、大学生のときに新宿アルタ裏の「三州屋」によく行っていました。「鶏豆腐が美味いんだよ」って先輩に教わって。あ、そういえば今日は食べてないや。最後に頼みましょう。

吉田 鶏豆腐、美味いですよね。

久住 そこ(新宿)のお客さんの雰囲気がよかったんですよ。カウンターはここと同じ白木で。店員さんが料理を運ぶアルミのお盆が、使い込んでベコベコで、原型をとどめていないのもいいんですよね。

 

大衆酒場に行き尽くすためには「2代目吉田類」が必要!?

久住 この間は、たまたま北千住の「」という店に行きました。どこもギッシリで入れないなってときに、その「葵」の前を通って、「おや?」と思って入ってみたんです。そこでおいしく食べて飲んで帰って、後日知人に話したら、昔から有名な店だそうで。もともと料亭にいた奥さんがやっている店。言われてみれば、普通のおばちゃんではなかった。でも腰を悪くしてずっと休んでたのが、僕が行った前日からちょうど再開したそうで、タイミングがよかったんだなあと。僕はいつも調べないで行くので、本当に偶然頼りなんですよ。失敗もたくさんするし。

吉田 ドラマは、よくこの店を選ぶよなっていうお店ばかりだから、久住さんは全部調べてるんんだと思ってました。

久住 ドラマに登場する店はスタッフがかなりがんばって、ネットに頼らず足で探してくれているんです。韓国編のときは、ゼロから探すのは難しいから、まずコーディネーターさんに聞いて、最初はすごく美味しいお店に連れていってもらったみたいで。でもスタッフたちが「この店、美味しいけど、久住さんどうかな」って話してるから、コーディネーターさんは「こんなに美味しいのに、久住さんてどんなにうるさい人なんだろう」と思ったんですって。それでそこでみんなで食べた後に、スタッフが隣の隣の店に行って、こっちが良いってことになって。雑然としてて、美味しいんだけど観光客向きではないような店。コーディネーターさんは「こんな店がいいなんて、嫌だな」って思ったみたい(笑)。でもできた番組を見たらちゃんと『孤独のグルメ』になっていて、面白くて「なるほどなぁ」と感心したそうです。

吉田 映像にすると違うんですよね。現実と。僕は、観ている人が実際に行ったときにギャップがないようにというのは心がけています。だから、この店は好きじゃないなと思ったら一言も喋らない。そういう店は滅多にないんですけどね。視聴者を裏切らないようにしたいなとは思っています。

久住 『酒場放浪記』は、もう20年近くになりますか。すごいなあ。

吉田 そうなんですよ。

久住 20年も飲み続けてるんですもんね。『孤独のグルメ』が10月から始まるシーズン10で10年。『酒場放浪記』は20年、そりゃあ日本全国の店に行きますよね。類さんは東京で行ってないところはなくなってきたんじゃないですか? 老舗は行きつくしたんじゃないかな。

吉田 それがあるんです。おそらく東京で取材対象になるような「いい店」っていうのは、大衆酒場で少なくとも2,000はあります。「まぁいいな」というのを入れたら5,000はある。一生のうちにやりきれませんよ。日本全国を周っていたら余計にできないです。

久住 2代目吉田類が必要ですね。なんか2代目を襲名しやすい名前ですね、吉田類って。類さんは引退して違う名前になったりして(笑)。

吉田 そしたら僕は別の企画でがんばります。山に行って飲む。山飲みもいいですね。

久住 類さんは登山も続けているんですよね。どんな山に行くんですか?

吉田 いまNHKで『にっぽん百低山』て番組をやっているんですけど、低山ですね。

久住 『にっぽん百低山』! いいなぁ(笑)スケールが大きいんだか小さいんだか。

吉田 番組を始めるときも、タイトルが気に入って。「低山」というテーマで企画が成り立つのは僕くらいしかいないんじゃないかな(笑)。僕は大衆酒場で飲んでいるけど結構健康なんです。元々3,000m級の山を登ってきた人間だから、山は平気なんですよ。

久住 登山はまったくやらないけど、低山ならボクも好きです。高尾山とか。類さんはいつ頃から山に登っているんですか?

吉田 20代の頃はヨーロッパで絵の勉強をしていたんですが、その後日本に戻ってからですね。南アルプスから始めて、北アルプス、それから白神山地、奥羽山脈を渡って、北海道に行ったんです。それで、北海道ってとんでもなく綺麗なところだとわかったんです。こんな美しいところを見ずして外国ばっかり見ればいいと思っていた自分は馬鹿だったと気づいて、北海道に通うようになった。それが30代の後半くらいですかね。

久住 そのときはまさか「酒飲み」が仕事になるとは思っていなかったですよね。

吉田 まぁでも、なるべくしてなったのかなと思いますね(笑)。

久住 小学校の時からの、密造からの叩き上げだからなあ。普通の呑兵衛はかなわないですよ。

吉田 子供の頃、夜になると田舎の酔っ払った親父連中が大きい声を出しているのが聞こえてくるんですよ。そういう人たちは戦争で非常に辛い目に遭っていて。殺したくない人を殺したり、そういう経験があるのに、真っ直ぐに生きられるわけがないんです。だからそういうのがお酒の飲み方に出るんですね。それを見てて、大人たちは戦争で本当に苦しい経験をしてきたんだなと子供ながらに思っていました。

久住 僕らが子供の頃は、大人がお酒を飲む背景にそういう苦しさもあったんでしょうね。お袋の兄貴は最後の特攻隊みたいな世代で、19、20歳くらいで特攻隊に行くはずだったんだけど、操縦の成績がすごく良かったから、予科練の先生になるか特攻隊になるかどっちかで選べたんだそうです。それで、特攻隊には行かずに先生になるほうを選んだ。良かったんだけど、本人にとっては、友達がみんな死んでしまったから、ものすごい罪悪感があって。母曰く、当時叔父にはどうやら思いを寄せる女の子がいたらしいと。その人とは戦後結ばれることもなかったんだけど。だからかな、叔父は酒飲みだったけど、暗いというか静かで内省的な酒飲みでした。酒はひとりで飲むみたいな感じで。親戚の人が集まったときに戦争の話になって、「戦時中は大変だったねぇ」なんて笑い話にして話すと、叔父は「そういう話はやめろ」って言ったそうです。僕らの親の世代にはそんな青春の苦く暗い記憶も、酒に影を落としているんですね。

吉田 僕の親父は酒で死んだようなものです。母親は後添えだったということもあって、その地域の文化をよく知らなかったし、酒も飲めない人だったんだけど、さっき話したように近所の人たちが甑で焼酎を造っているのを見様見真似で造ったら、とんでもなく美味しい焼酎ができちゃったんですよ。それがウチの売りだったんだけど、そのせいか酒飲みだった父は早くに死んでしまいました。そんな環境で育った僕が飲めなかったらおかしい(笑)。

 

飲めなかった母親が「職業・酒飲み」の吉田類を育てた

久住 類さんは若い頃海外で絵の勉強をされていたんですよね。絵はいつから描き始めたんですか?

吉田 絵は子供の頃から描いていました。近所に画家の先生がいたんです。酒飲みばかりの土地でその人は飲めなかったから、不良なんだけど、いろいろ抱え込んでいるような先生でした。酒飲みもいて、画家もいて、山奥の田舎なんだけど絵画や詩に触れる機会はあったから、昔から海外への興味は強かった。子供の頃、山に登って、初めて土佐湾を見たんです。山並みのずーっと向こうに白く光るものがあって、それが土佐湾だった。そして、土佐湾の向こうはカリフォルニアなんです。

久住 カリフォルニア! いきなりスケールが大きいなぁ!

吉田 山を開いてできた狭いところだから、僕はこんな狭いところにはいられんと思って、東京に行って、そのあとヨーロッパに行って、ニューヨークに行って。

久住 僕もずっと絵を描いてきたから、すごく親近感があります。上京のきっかけは何だったんですか?

吉田 イラストレーターの仕事ですね。日本にいるなら一度は京都に住みたいっていう気持ちもあったんだけど、京都だと仕事がないから東京に来ました。でも結局その後ヨーロッパに行ったりして。

久住 東京に来て、その後バーンとヨーロッパに行こうってなれるのは、土佐湾の向こうはカリフォルニアだ!っていうのと同じ、大雑把な考え方(笑)。でもそこがいいですね。類さんのこの自由な感じを作ったのはお母さんなんでしょうね。飲めないのにおいしい焼酎を作って、飲めないのに酒飲みを育てて、類さんの自由な感じを許した。

吉田 そうですね、徹底して許したんです。山奥で何もない、自然しかない場所で、お金はないんだけど、貧乏人がいないわけですよ。いないというのは、みんな貧乏だから誰が貧乏人か知らない。貧富の差がないから差別意識が生まれないわけです。そんな環境で母親が唯一こだわったのは、好きなことを全部させて、自由に育てるということでした。

久住 絶対そうだと思います。じゃなきゃ、絵を描いて東京で仕事を取ろう、海外に行こうとならないですよね。お母さん自身は何かものを書いたりはしていなかったんですか?

吉田 母親は小説を書いたりはしていたみたいです。

久住 小説! やっぱりそういう素地があったんですね。

吉田 息子を普通に働かせる気ははなからなかった。

久住 そんな背景があって、「酒飲み」として食べていけるというような、珍しい職業に辿り着いたんですね。

吉田 子供の頃から「遊び」こそが人生だっていう生き方は変わっていないのかもしれません。

 

(撮影/加藤 岳)
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対談したお店

※本記事に掲載された情報は、取材日時点のものです
※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください

 

プロフィール

●久住昌之

マンガ家、音楽家。1958年東京都出身。81年、泉晴紀とのコンビ「泉昌之」名義の短編『夜行』で漫画家デビュー。単行本『かっこいいスキヤキ』『ダンドリくん』などを発表。原作を担当した谷口ジローとの『孤独のグルメ』はドラマ化され現在season10。その劇中音楽も制作。実弟・久住卓也とのコンビQ.B.B.名義で描いた『中学生日記』で文春漫画賞受賞。漫画『花のズボラ飯』(作画・水沢悦子)、『野武士のグルメ』(作画・土山しげる)などのほか、エッセイ『勝負の店』など著書多数

過去の久住さんの連載「途中メシ」はこちら

●吉田 類

酒場詩人。1949年高知県出身。酒場や旅をテーマに活動を続け、俳人の顔も持つ。BS-TBS『吉田類の酒場放浪記』、NHK総合『にっぽん百低山』、NHK第1『ラジオ深夜便』などに出演。近年は画家の活動も再開し、2018年、2019年、2022年に銀座三越にて個展を開催。『酒場歳時記」(NHK出版)、『吉田類の旅と酒場俳句』(KADOKAWA)、『酒場詩人の美学』(中央公論新社)など著書多数

Source: ぐるなび みんなのごはん
久住昌之×吉田類の昼酔い放談――何が楽しいのかわからないけど、何だかみんな楽しそうなお店がずっと好き

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