©M.ISHIJIMA:N.G.E.
高校史上初の三冠を達成したチームには
卓越したゲームメーカーがいた
まるで空からピッチを見ているように試合を読み
抜群にコントロールされたパスを繰り出していた
だがそのころから左膝には白いテープがぐるぐる巻きだった
大きな期待を背負って入ったプロでも苦しんだ
様々な思いを持ちつつ「偽善者でいい」という宮原裕司に
思いが溢れるオススメの店を聞いた
戦力外で練習生になった矢先のケガ
これまでのサッカー人生の中で一番苦しかったときは……2002年ですね。名古屋グランパスエイト(現・名古屋グランパス)で契約満了、つまり戦力外になったんですよ。でも、アビスパ福岡に入団できるという話をいただいたんです。
それで年明けに福岡へ行ったら、「まだ経営的にちょっと厳しいので、今から金額を決めさせてくれ」と言われて、練習生ということになったんです。
練習に入って3日目かな、第五中足骨を折ってしまって。半年間、アビスパの寮には住まわせていただいたんですけど無給の状態で、先もわからないまま4カ月ぐらいリハビリをやりました。
名古屋で戦力外になったのはプロとして初めてのことでしたし、「この先どうなるんだろう」と思っていた矢先のケガだったんで、「復帰してピッチに戻れるんだろうか」「契約できるんだろうか」と、いろんな不安の中でやってたんです。
そのときは将来が見えませんでした。今思うとまだ若かったんで何でもできるんですけどね。
そのときアビスパの寮には新入団選手や若い選手もいました。希望や夢に満ち溢れてる、初々しいフレッシュな選手と一緒に住めたので、そういった意味では気を紛らわせることができた感じがしますね。その選手たちは僕のことを知ってましたけど、僕が無給とは多分知らなかったと思います。
それでも年上は若い選手に飯をおごらなきゃいけなくて、無休のままご飯食べに行ってました。見栄もありましたし、意地もあったんでね。今思うと、その境遇を逆にエネルギーに変えられたというか。「復帰して、もう1回ピッチに出てプレーで示す」って思えましたから、彼らに勇気をもらいましたね。
「痛いんで休みます」とは言えない時代だった
東福岡高校時代には高校史上初の三冠を達成しましたし、全国高校サッカー選手権大会を連覇しました。パスが僕の武器で、ちっちゃいころからずっとチームメイトだった1学年上の本山雅志に鍛えられたんです。「寄越せ! 寄越せ!」ってうるせえし、「出せるかこの野郎!」って、いっつも喧嘩しました(笑)。
幼稚園からサッカーしてたんですけど、そのころには「人をアゴで動かす」って言われてましたね。僕は覚えてないですけど、「そこ走れ」「右に行け」「下がれ」とか、そういうことを一番しゃべってたらしいです。でも確かに「どうやったら守れるのか」「どうやったら点が取れるか」って人を動かしながら考えてたんで、指示を出すのが習慣になってたんだと思います。
1999年に夢を描いてグランパスに入りましたけど、プロは世界が違いましたね。壁が高い感じがすごくして。特に名古屋はビッグ・クラブだったし、ピクシー(ドラガン・ストイコビッチ)もいましたし。
他にも山口素弘さん、大岩剛さん、平野孝さん、望月重良さんとか、そうそうたるメンバーがいた時代で、とことん選手層は厚くて。そこに飛び込んで「プロってすごいんだ」というのを改めて感じました。
最初にキャンプで宮崎に行ったときは衝撃を受けましたね。今でも覚えてるんですけど、ホテルから練習場のシーガイアまで、バスで20分ぐらいだったんです。そのバスの中でいつもピクシーが前で歌ってるんですよ。「ゆず」の歌を。
こっちは2部練習がしんど過ぎてそれどころじゃないんです。プロ世界のプレッシャーもあるし。そんな中でピクシーは余裕で過ごしてて「やっぱりこの人すげえな」と思いましたよ。
それまでは僕も鼻息が荒かったんで、「開幕から試合に出てやる」くらいのノリで行ったのに、鼻をへし折られたっていう感じでした。それからは勝ち気になれなかったですね。結局3年契約が終わったところで「0円提示」になったんで、やっぱり厳しい世界だというのを改めて感じました。
高校時代からずっと左膝をケガしていて、結果論で言うとそのJリーグに入る前の時期、もっと今みたいに専門的な人がいて、復帰に向けたプログラムをやっていければよかったと思います。かといって、僕の時代は「痛くなくなったら試合に出ようか」「ちょっとテープ巻いたらいけるでしょう」くらいの気合と根性が求められてたし。
今では「脳しんとうだったら1週間は休む」ということになりますけど、昔は「もう行けるか?」みたいなノリでプレーしてましたね。全国高校サッカー選手権も元旦だけが休みで、あとは連日試合でしたから。それが普通だと、キツイとかなくて意外に体は慣れるという感じがしますけどね(笑)。
大会になると先生がペンみたいなもので針を打つ人を特別に連れてくるんです。部長が「あの人、めちゃくちゃ高いんだよ」という話をしてました。その人が指先にペンみたいのをプチッと刺すと、神経を麻痺させるみたいでしばらくヒザの痛みが消えるんですよ。
金古聖司もヒザを負傷していて、僕と金古は試合前に手にプチッと打たれるんです。それでも前半終了ぐらいになるとまた痛くなるので、ハーフタイムにもう1回打ってもらうというのをやってました。対処療法でしたね。
それから全国大会だけはテーピングしてくれる人が来てくれたんですけど、いつもは自分で巻いてて、やり方が正解だったのか自分ではわかんなかったですね。今、Jクラブだったり高校でもトレーナーがいるので、そういった意味では、昔の人はよくやってたと思います。
そういう時代を過ごしたから、当時の選手は多分引退してからは結構みんなヒザや足首が悪いし。今、松本山雅FCで名波浩監督の下コーチをやってますけど、名波監督もやっぱりヒザや足首がやばいって言ってますね。
もしあの時代にもっとサッカー界にもそういう医学が浸透していれば、と思います。でもそれは「たら・れば」なので、しょうがないですよ。当時の高校生は「ちょっと痛いんで休みます」「将来があるんで今回は出ません」とか言えなかったですよね。
今はそう言えるようになってきましたが、いろんな整形外科の先生と話をすると、まだ医学的な部分は導入が遅いって言ってました。名波監督はケガやちょっとコンディションに問題がある選手はすぐ練習から外しますよ。「悪くなって1週間休むより1、2日休んだほうがいい」っていう考えなんです。
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サッカーを好きになってもらうには?を追求する日々
僕はプロになるときに想像してたのとは全然違うキャリアになりました。やっぱり小さなころにもっとやらなくちゃいけないことがたくさんあったと感じます。ストレッチだったり、口に入れるものもそうですよね。
やっぱり知識がなかったんですよ。どうしてストレッチをしなくちゃいけないのか、どういうものを食べたらいいのかなんて話を聞いたこともなかったし。ストレッチは体の柔軟性をキープするためにとても重要なんですけどね。他にも休養だったり、水分を摂ったり栄養を摂るタイミングなんか、プロになるまで聞いたことがなかったんです。
これは小中高の恩師の批判というわけではないんです。東福岡高校の監督(現在は総監督)だった志波芳則先生はそういう知識も身につけるためにS級コーチライセンスを取りに行ってたと思いますから。「プロに行く選手がいるんだったら知識を持っておかなければいけない」という考えで。先生たちもそうやって知識を得ようとしてたけど、なかなか情報が得られなかったんだと思います。
だから僕は今、サッカースクールもやってるんですよ。サッカーだけじゃない部分、自分が小さいころにほしかったものを提供したいと思って。2つやってて、そのうちの1つが「iam.(アイアム)」というスクールです。週1回なので、「サッカー塾」という感覚で考えてもらったらいいですね。
低学年向けには楽しくサッカーをしてもらう、高学年向けには「iam.」の名前のとおり「自分はこういうプレイヤーだ」という主張をしてもらうようにしてます。当然みんな課題はたくさんありますけど、でもストロングも絶対あるんです。そこを「僕のストロングはこれです。これで勝負します」と自信を持って言えるような選手になってほしいという思いでやってます。
自分はなんとなくパスが出せてたので、スルーパスで決定的な仕事をするゲームメイクをやってましたけど、じゃあどうやったらもっとよくなるのか、もう一歩掘り下げる作業をやってもよかったと思います。自分でやってたんですけど、自分の感覚と人から見たものとちょっと違うじゃないですか。
選手は「自分はできてる」と変に勘違いするところもありますし、意外にそうじゃなかったりするのが多々あるんですよ。それは子供たちも一緒だから、高学年になると1人ずつ練習風景を動画で撮って編集して、お父さん、お母さんと選手の3人で年に3回、フィードバックする時間を作ってるんです。
「あなたはこういうのが得意ですね。どうですか」って。文字とイメージだけじゃなくて、動画があると分かってもらいやすいんです。そして、「こういう課題を克服すれば自分のストロングがもっとよくなるよ」というところまで話をします。
それに栄養と睡眠とストレッチの話もします。すると、お父さん、お母さんも「ほらいつも言ってることでしょう? やっぱりコーチそうですよね」みたいな。意外とお父さんお母さんも言ってるんですよね。ただ親が言うと聞かないんですけど、コーチが言うと説得力があって。
それが年に3回あるので、「この前は『いつもスマホを見て、風呂入ったあとストレッチしなかった』って言ってたけど、どう? 改善できた?」と聞くと、「10分だけはやってます」とか「今も言っても全然聞かないんですよ」という話が出てきたりしますね。
「でもうまくなりたいよね? だったらなんでしないの?」「自分はうまくなりたい、強くなりたいって言ってるのに、ご飯を食べない、ストレッチはしない、それじゃなれるわけないでしょ?」っていう話も選手にしてます。
そうやってうまくなってほしいと思ってますけど、エリートを育てるサッカースクールじゃないんですよ。僕はS級コーチライセンスを取る際のプレゼンで「裾野を広げる」みたいなテーマを選んだんです。それで「サッカー人口を増やすために何が必要か」といろいろ調べていくと、結局、サッカーをどれだけ好きになってもらうか、というポイントがあったんです。
「楽しい」というところからのめり込んでもらって、いろんな知識をつけてもらうのが僕の狙いです。プロならなくても、ですね。そしてスタジアムに行くようになるのが僕の一番目的でもあるんです。
そういった意味ではうまい子というより、ちょっとサッカー好きだけど、どうやったらサッカーって楽しいんだろうって思ってる子に、のめり込ませるような入り口を作りたいと思って開校したんです。それにどんな子にもチャンスはあるし、どんな子もやればやるだけうまくなるのがサッカーだって僕は思ってるんですよ。
それから「誰がいいプレーヤーなのか」っていうのは本当に難しいですよね。僕はアビスパのアカデミーでコーチをやっていたときセレクションにも携わってましたけど、だいたい18人採ってたんですけど、冨安健洋は多分、採った18選手の中での評価は10番目ぐらいでしたから。
もう1つやってるのは、「はんずあっぷ」という発達障害のある子供たちを対象にした、サッカーを中心としたスポーツを楽しむ「放課後等デイサービス」です。生れ故郷の北九州でやってるんで、地元貢献と言うと大げさかもしれないんですけど、自分のできること、やりたいことをやろうっていうのがそもそもの始まりです。
現役のときに、シートを買ってスタジアムにいろんな人たちを招待してたんです。クラブに「どういうところがありますか?」って聞いて、親のいない子の施設とか、発達障害の子の施設とか。来てもらうだけじゃなくて僕がその施設に行って、子供たちと一緒に食事をして中庭で遊ぶみたいな活動もやって、そのときめちゃめちゃ喜んでくれたんですよ。でも、それと同時に見たのは、施設のスタッフがすごく疲弊してた姿だったんです。多分、毎日大変と思うんですよ。だから自分が何かやりたいと思ったんです。
それに僕はスタジアムを満員にするっていう目標があるんです。選手はやっぱり満員のスタジアムが一番モチベーション上がるし、声援で能力がもっと引き出されるんです。そこで活躍すれば「もっとやろう」って思うだろうし、試合に出てない選手は「あそこに出たい」「あのピッチに立ちたい」とまた練習すると思うので。
自分が監督になって魅力的なサッカーをさせるのもスタジアムを満員にする一つの手段だと思います。でもサッカーを好きな人だけが集まるのって限界があるとも思ってるんです。そこに僕のやってる「iam.」と「はんずあっぷ」から招待したら少しでもプラスになるじゃないですか。「僕がやってるからどうぞスタジアムに来てください」って。そういうアプローチでも僕は満員のスタジアムにするのに貢献できると思ってるので。
サッカーを知らない人がどう入り口を入っていくか。「はんずあっぷ」に来てる人が「代表の宮原さんってサッカーしてるんですか」ぐらいから入ってもらって、1回見に行こうかな、みたいな。
そういう人が1人増えて2人増えて、そこからサッカーにのめり込んでくれればね。ギラヴァンツ北九州もミクニワールドスタジアム北九州といういいホームスタジアムがあるんで、サッカーにのハマるにはうってつけの場所です。そうやってサッカーを知らなかった人がのめり込んでくれれば、僕の勝手な目標の一つが達成されたことになると思ってます。
「もうダメだ。戦えない」と思った瞬間
僕が1クラブで最多出場したのは現役最後の年の2009年、アビスパでの36試合でしたね。2005年はサガン鳥栖で31試合出て、シーズン途中にセレッソ大阪に行って10試合出たんで、あれがシーズンハイです。
ただ、2006年のセレッソでは出場機会がガクンと下がりましたし、2009年はその年で契約満了になりました。どっちも監督は代わってないんですよ。監督が代わって出られないパターンはよくあるじゃないですか。でも監督が代わらずに出られないってことは、何かしら自分に問題があったっていうことですからね。
フィジカルの一言で片付ければ簡単ですけど、自分にはいろんなものが足りなかったんだろうと考えるしかないんです。それを「なぜだ、なんでだ」ってずっと不満に思うんじゃなくて、前に進むしかないですからね。それに何が起きても2002年の1回目の移籍のときに比べたら、もう全然余裕ですよ。
現役最後の試合はアウェイの東京ヴェルディ戦でした。あれ、実はその次の週の試合が天皇杯で鹿島アントラーズとやることになっていて、本山から「久しぶりの対戦を楽しみにしているよ」って言われてたんです。ところがヴェルディ戦で退場して出られなくなったんですよ。
味方からのパスを左足でトラップミスしたんです。「え? ここで?」と自分で思いました。そのボールを奪った選手を引っ張ってレッドカードが出て。あれが僕の現役最後のプレーですからね。
シーズンが終わって契約満了になって、当然「退場で現役を終えるわけにはいかない」という思いも、「絶対もう一度やってやる」みたいな気持ちもありました。それにちょっとだけ現役の道もあったんです。
インド、韓国、タイのチームから興味を持ってると言われたんですよ。現地に行ったあとに年俸と契約を決める、シーズンは3月からで1月と2月は自分で練習しておいてほしい、という話でした。
でも同じころアビスパから「アカデミーをやらないか」という提示も受けたんです。そうしたら、ちょっと頭の中をよぎったんですよ。「指導者になるのもいいかもしれない」って。
その瞬間に「もうダメだ。戦えない」と思いました。指導者と現役を比べた自分がすごい情けなくなったというか、「ピッチに、指導者への転身がよぎったやつが立っていいのか」と思って。それで誰も相談せずにパッと引退を決めたんです。
今思うと、両者を比べながら決断してもよかったと思いますけど、やっぱりそのときのフィーリングと、何かプライドなのか、思いなのか……意外とスパッと辞められた自分がいました。
©兼子愼一郎
「偽善者」と言われてもいい
自分の心の中に残ってるのは、やっぱり高校時代を過ごした福岡に帰ってきて出たアビスパ時代の試合です。どれもすごく覚えてますね。親や友達が見に来てくれてましたから。
あとはサガンのときにガーッと勝ち続けた試合っていうのはすごく心に残ってるんです。こんなオレたちでもやれるんだ、みたいな。僕もそんなにキャリアを積んだわけじゃない選手ですし。でも松本育夫監督が来て選手を呼んで気持ちを変えて、その年に一時は昇格圏まで詰めたんで。
ただ一番と言ったらやっぱりグランパスのデビュー戦ですかね。ジュビロ磐田とのアウェイ戦で後半から出場したんですけど、1-5でしっかり負けましたからね。
あとは最後の試合です。ミスしてからの引っ張り合いの、あれ何秒ぐらいなんだろう、多分5秒もないぐらいの、戻りながら4回ぐらい引っ張ったかな。最後はイエローかと思ったけど退場で。ロッカールームで1人モニターを見るあの虚しさ、今でも覚えてますけど……ね。
指導者になって、40歳になるまでに監督になるっていう目標を持ってやってました。今41歳で、目標は達成できてないですけど、これまで宮本恒靖監督、松波正信監督、森下仁志監督の下でコーチをやれたのはすごく勉強になってます。
今シーズンは松本山雅のコーチになって、名波監督からもいろんなことを学んでます。また、松本は本当にサポーターが熱いんですよ。アウェイゲームで松本に来たことはあったし、ホームで対戦したときも「ここまで来るんだ」と思いながら見てたんですけど、新体制発表会ですら手拍子とか、手拍子を止めるタイミングとか、もうめちゃめちゃ抜群だったんで、想像以上にすごいと思って。しかも、おじいちゃんやおばあちゃんが多いんです。町に愛されてるのはすごい感じますね。
僕はこれまで指導者にたくさん助けられてきたんで、今は自分が選手に対してできることは何なのかを考えながらやってます。結局ピッチの上でプレーするのは選手なんで、僕は何かきっかけを作れればと思うんですよ。
僕の考えをいいと思ってもらったり、選手が「僕の考えはこうなんですけど」って言って僕が「いいね、それ」みたいな反応をして考えが深まったり。指導者と選手という壁は絶対あると思うんですけど、サッカーに関して壁はいらないという考えでやってます。
これまでの監督を見て感じてるのは、「やっぱりあの人に聞きたい」と思われる指導者になりたいということですね。「僕、今日どうでしたか?」でもいいですよ。「ホントに最高やったよ」「そうっすよね」みたいな。それだけで選手って自信が持てます。
僕は自信を持てばもうどんどん上手くなると思ってるんで、だから彼らに自信をつけさせる、そういう指導者になりたいって。「iam.」もそうなんですけど、やっぱりストロングを生かしたいなって。
課題ばっかり追っかけてたら疲れると思うんです。もちろん課題も追いかけますけど、それよりできてることを改めて認識して、「お前の武器はそれだろう。どんどん行けよ」みたいな。それで何か会話できたら、選手はすごくうまくなるんじゃないかっていうのは、コーチをしてたガンバ大阪のU-23の選手を見て思ってました。
今、現場指導者と「iam.」と「はんずあっぷ」と3つやってますけど、「こんないろいろやってるからダメになるんだよ」と言われないように、という気持ちでやってます。
「iam.」も「はんずあっぷ」もコロナ禍で大変ですけどね。人が集まることはなかなかできないし、学級閉鎖がめちゃ多いんで、そうなると経営的にまあまあしんどいですからね。でも、やるって決めてますし、ちょいちょい「偽善者」って言われますけど、全然偽善者でいいんです。もちろん、まずは松本で結果を出さないといけませんね。特に今年は昇格が絶対なんで。
1年前に「45歳までにはどこかの監督をする」という新たな目標を立ててやってます。やっぱり監督をしてみないとその世界は見えないと思ってますから。大変だろうとは思うんです。これまで4人の監督を見てますけど、「大変ですね」って気安く言えないぐらいでした。だからやってみないと見えない、そこからの景色を見たいと思ってます。
それで、自分の好きなレストランなんですか? ほぅ。僕、めちゃめちゃあるんすよね。
まずやっぱり一番長く、僕のどんなときもずっとメシを提供してくれている、福岡・天神の「享楽」という店ですね。
そこは肉も魚も抜群にうまいんですよ。焼き鳥も、ゴマサバとかそういう魚介も美味しくて。個室があるんで、帰ったときはだいたい家族で顔出しますね。20歳ぐらいから通ってるので、もう21年ぐらいの付き合いです。大将と店閉めて一緒に飲み行ったりして、今でもLINEちょくちょく来てます。
それから福岡・西中洲にある「三原豆腐店」です。元Jリーガーの三原廣樹の店ですよ。三原とはグランパスとアビスパのときに一緒にやってました。ここはね、今、調子に乗ってるんですよ(笑)。人気で。
三原の実家が豆腐店で、それを今風にしたんです。タイのバンコクにも1回店を出したんすよ。東京にも出したんじゃないですかね。「TOFFEE(トーフィー)」っていう豆乳を使ったコーヒーの店です。三原は元々服とかおしゃれとかそういうの好きでしたからね。
実は「iam.」って名付けしたのは三原なんです。僕が「スクールやるから名前は考えなきゃいけない」と言ってたら、「もうシンプルに『宮原塾』でいいんじゃね?」みたいなことを最初に言ってて。「それじゃちょっと」なんて話から、「どんなスクールなん?」「ストロングを打ち出したいし、小さいころからそういうところを目ざしてほしい」「じゃ『iam.』でいいんじゃね?」「あ、いいね」って。
それから最後は愛媛の「鈴」っていうお好み焼き屋さんですね。
僕、愛媛時代に内村圭宏と毎日通ってたんです。お母さんと娘さんがやってるカウンターしかない店なんですけど、毎日、鉄板焼きじゃない、メニューに載ってない料理を僕と内村に食べさせてくれたんですよ。他の人が入ってきたら、「なんであの人たち鍋食ってんの?」みたいな。
隣に三越があったんで、お母さんとその日の肉や野菜の買い物とか一緒に行って、僕たちは荷物持ちですよ。重たいものは全部持ちますからって。僕が脱臼とかケガしたとき、ストレスはあの2人に癒されてましたね。
そこから、愛媛の選手は今でも結構行ってますもんね。僕も連絡はしょっちゅうしてます。ただ、僕が一番元祖なのに、最近お母さんとお姉さんはちょっとオレの扱いが雑になってる気がします(笑)。もし、愛媛に行くときはぜひ寄ってくださいよ。
宮原さんオススメのお店
※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください
宮原裕司 プロフィール
1999年、東福岡高校から名古屋グランパスエイトへ入団。2002年にアビスパ福岡へ移籍し、サガン鳥栖、セレッソ大阪などを経て2009年に現役引退。その後はアビスパのアカデミーコーチ、ガンバ大阪トップチームコーチなどを経て現在は松本山雅FCのコーチを務める。1980年生まれ、福岡県出身。
森雅史 プロフィール
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。
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Source: ぐるなび みんなのごはん
僕は偽善者でもいい…Jリーグコーチ・宮原裕司が発達障害の子供たちに託した夢【ごはん、ときどきサッカー】