ボクサーに「減量」はつきもの。しかし、そこに絶対の正解はない。“戦う”ための体作りは、健康的なダイエットとはワケが違うからだ。体力・筋力を保ちながら計画的に絞る選手もいれば、計量パス後に急激な増量によるパワーアップをはかるため、あえて短期間で落とす選手もいる。減量も戦略のうちであり、ボクサーごとに己の信じるやり方がある。
では、過去の名選手は、どんな食事を経てリングへ至ったのか? また、減量メニューだけでなく、調整に入る前の“最後の晩餐”や、試合に勝ち、節制から解放された後の“勝利の味”なども千差万別だろう。
厳しい減量に縛られているからこそ、一食にかける思いも強くなる。おそらく、ボクサーそれぞれに、食へのこだわりやルールがあるはずだ。そんな、減量にまつわる“ボクサーたちの食事”に迫ってみたい。
お話を伺ったのは、元日本スーパーフェザー級チャンピオンの矢代義光さん。深い懐から放つ切れ味鋭いジャブ、槍のように突き刺す左ストレートを武器に、21勝(12KO)1敗2分の戦績を残した。
現役時代、矢代さんはどんな調整を行っていたのか。何を食べ、何を食べなかったのか。
その減量法や食へのこだわりを伺いつつ、プロボクサーとしての歩み、思い出の食事についても語ってもらった。
普段はあえての暴飲暴食で“重り”をまとう
――矢代さんは中学からボクシングをはじめ、アマチュアとプロで約15年にわたり選手生活を送りました。10代半ばから20代後半までの多くが、いわば「減量」との戦いだったと思います。当時、試合前に行っていた減量のルールやルーティンについて教えてもらえますか。
矢代:現役時代の後半はスーパーフェザー級(58.97kg以下)で戦っていました。普段の体重が73~74kgだったので、そこから2か月ほどで15kgくらい落としていましたね。
――普段のウエイトは、けっこう重かったんですね。
矢代:そうですね。いつも試合が終わったら暴飲暴食をして、一回あえて重くするんです。その重りを背負った状態でトレーニングをして、減量期に入ったら徐々に筋肉だけを残して重りを削っていく。そして、試合で身軽に動けるようにする。そんなイメージでした。
減量は2ヶ月を前半と後半に区切って、前半の1ヶ月はわりと普通に食事を摂ります。それまで暴飲暴食をしているから、常識的な食生活に戻してトレーニングするだけで8~10kgは無理なく落ちるんです。そこから後半の1ヶ月は、最後の5kgを丁寧に、体調管理しながら落としていきます。体力や筋力まで落ちないよう、質のいい食事を、なるべく品数多く摂るようにしていましたね。
――具体的に、どんなものを食べていましたか?
矢代:前半はレバーや馬刺し、ほうれん草などは必ず食べていました。サプリメントは使わず、栄養は基本的に食べ物から摂るようにしていましたね。追い込みの1ヶ月に入ってからも、スパーリングをやった日は筋肉をつけるためにステーキでたんぱく質を摂っていました。それ以外の日は、鍋やスープがメインです。温めた肉や野菜を食べて胃腸を整え、翌日の昼はその残り汁を雑炊かうどんにして炭水化物を摂って、なるべく栄養が偏らないようにしていました。
――プロからすると当たり前かもしれませんが、とても計画的な調整ですね。ちなみに、矢代さんってアマチュア時代はフライ級(52kg以下)、プロデビューからしばらくはフェザー級(57.15kg以下)、キャリアの後半はスーパーフェザー級(58.97kg以下)と、少しずつ階級を上げていますよね。それは体の成長とともに、ベスト体重が変化していったからですか?
矢代:やっぱり、その時々のベスト体重があるんですよ。それに、アマチュアとプロでは戦い方が変わるから、そこでも微妙な体重差を意識する必要があります。アマチュアはラウンドが短いので、足を使い、判定狙いで逃げ切る作戦もとれる。でも、プロはラウンドが長く、一撃で終わってしまうリスクも高まるから体幹を強くしないといけない。だから、プロ転向後は体を大きくするためのトレーニングをしながら、ベスト体重を探っていったんです。
――なるほど。よくボクサーが「減量がきつくなって階級を上げる」と言いますが、あれは単に「辛い、しんどい」という意味ではなくて、トレーニングで体が進化したがゆえに適正体重が変わった、ということでもあるんですね。
矢代:はい。僕もデビューしたときは55kgくらいがベストでしたが、体の線は細かった。そこから厳しいトレーニングを何年も重ねていくと、筋肉量が増えていくから体重が落ちにくくなったり、落ちても一緒に体力まで削られてしまうようになるんです。それで、プロ18戦目から階級を上げました。
食事も何もかも型破りだった、レジェンド王者
――そういうウエイトについての考え方や減量・調整の方法って、誰かから教わるものなんですか? ジムの会長から指導されたり、先輩のやり方を参考にしたり。
矢代:もちろん会長やジムは指導してくれますが、プロである以上は自分でベストな方法を確立していくべきだと思っていました。あとは、ボクサーだった兄貴のやり方はずっと見てきたから、そこから学んだこともあるし、逆にこれは違うんじゃないかなと思って取り入れなかったこともありますね。
――矢代さんの兄・家康さんも元日本ランカーです。矢代さんより10kg以上軽いミニマム級(47.62kg以下)でしたよね。
矢代:そう。兄貴の体重管理は徹底していて、試合が終わったあとも48kgをキープしていました。きつい減量をしたくないから、普段から体重をコントロールしていたんです。野菜ばかり食べて、油は一切摂らない。すごいなと思う反面、あまりにも真面目すぎるんじゃないかなと感じるところもありましたね。
――試合後にあえて体重を増やしてトレーニングする矢代さんのやり方は、お兄さんとは真逆ですもんね。
矢代:やっぱり、普段はしっかり食べて栄養を摂らないとトレーニングの質が落ちてしまう。質が落ちるとパワーも落ちて、それってプロボクサーとしては致命的だと思います。実際、世界チャンピオンにまでなるような人に話を聞くと、みんなすごく食べるんですよ。ビュッフェでも何回もおかわりして、本当に異常なくらい食べまくる。食べたらそれ以上に、質の高い練習をたくさんすればいいという考え方ですよね。
――単に計量をパスすればいいわけじゃなくて、試合に勝たなきゃいけないし、その先の目標もある。そのためには食べて、練習でしっかり動けるようにしないといけない、と。
矢代:そうです。僕は世界チャンピオンになりたかったから、いい練習を少しでも長くやりたいと思っていました。だから、なるべく食べながら練習できるように調整していた。でないと、ボクシングの質も上がらないし、強くなれないから。
――矢代さんは2ヶ月かけて計画的に減量していたということですが、なかには短期間で一気に落とす人もいますよね。
矢代:現役のボクサーでも、試合の3日前にリミットを8kgオーバーしている人とかいるみたいです。“水抜き”といって、3日間で体中の水分を一気に絞るようなやり方をしている選手もいます。最近、計量を失敗する選手が多い一因じゃないかと思うんですけどね……。
――なぜ、そんな無謀な調整をするんでしょうか?
矢代:水分を抜いただけだから、計量後に体重を戻しやすいという理論のようです。今は前日計量なので、計量をクリアした後に1日でなるべく体重を戻して、より重くてパワーのある状態でリングに上がるためにそうしているのだと思います。
ただ、このあたりは間違っているとも、正しいとも断言できないところはありますね。ベストな調整方法は選手によって違うし、結局のところ勝負の世界は「勝った者が正しい」わけですから。昔、世界3階級制覇王者のバレラ(マルコ・アントニオ・バレラ)の合宿に帯同したことがあるんだけど、彼は試合の2週間前にピザ食べてましたからね。朝のロードワーク前にはポテトチップスも食べてたし。その時はさすがに考えさせられましたけどね。俺はこんなに気を使っているのにな……って。
――バレラすごい……! 超人的というか、さすがスーパースターというか。
矢代:そう、食事だけじゃなくて、あのクラスになるといろんなことを超越しちゃってるんですよね。バレラがパッキャオ(マニー・パッキャオ)とやる前に、僕が“仮想パッキャオ”としてスパーリングパートナーに指名されて、ロサンゼルスの山奥で一緒に生活していたんです。その時に山火事が起きて、日に日に僕たちが滞在している場所まで火の手が広がってきていた。なのに、バレラはすぐに逃げないんですよ。2週間くらいは平気でそこにいたと思います。消防隊が来て、いよいよヤバいって状況でも気にせずトランプしてました。消防士に「すぐ避難しろ!」って言われているのに、「あと一回だけ」ってまた始めちゃう(笑)。
――もはや“大物”とかいう次元じゃないですね。確実に何かがぶっ飛んでいる……。
矢代:でも、それくらいの人じゃないと、あのレベルまではいけないんだなと痛感しました。僕なんかは山火事の時、ずっと気が気でなかったですから。最終的にはすごい煙の中を車で避難して、超怖かった……。
“勝利の味”はチョコレートと、明け方のカレギュウ
――“最後の晩餐”じゃないですけど、矢代さんが減量期に入る前に必ず食べていたものってありますか?
矢代:甘いもの、特にケーキですね。減量に入る前日に、もう見るのもイヤになるってくらいケーキを食べまくっていました。しばらくいいやって思うくらいまで食べることが、試合に向けてスイッチを入れる儀式みたいになっていましたね。
よく行っていたのは浅草にある「梅園」という甘味処。そこであんみつを食べた後に、ケーキバイキングに行ったり、情報誌に載っているスイーツを食べ歩くコースが多かったかな。その時は、すでに現役を引退していた兄貴も付き合ってくれました。
――減量に入ってからも、たまに緩めて甘いものを食べることもあったんですか?
矢代:緩める時は、たまにソフトクリームを食べていました。でも、甘味って中毒性があるからクセになるんだけど、逆に言うと普段あまり食べてないと、さほど欲しなくなるんです。だから減量が進むにつれて、自然とそういうものは口にしなくなりましたね。
――では計量を無事にパスした後、試合までの間は何を食べていましたか?
矢代:すきっぱら状態なので、まずは薄めたスポーツドリンクを体を冷やさないよう少しだけ飲んで、ゼリーなどを食べます。その後は必ず、後楽園ホールの近くにあったうどん屋で力うどんを食べていました。それは、帝拳ジム所属選手の恒例みたいになってましたね。
――いわゆる“勝負メシ”というやつ。
矢代:はい。それから帰宅後には鰻や、パスタ、ごはん、フランスパンなどの炭水化物を摂ってスタミナをつけて、寝る直前にまたフランスパンやチョコレートを食べていました。
――やはり、それなりに体重を戻してリングに上がっていたんですね。
矢代:そうですね。一晩で3kg~5kgくらい戻していました。ただ、それ以上いくと体が重たくなってしまうから、暴飲暴食をして8kgも10kgも増やすってことはしませんでした。
――特に矢代さんはスピードが武器だったから、体重が増えすぎると逆に持ち味を発揮できなくなってしまいますよね。ちなみに、試合が終わった後に必ず食べていたものはありますか?
矢代:試合当日、ジャージのポケットにチョコレートを忍ばせておいて、帰りにそれを食べるんです。試合後は祝勝会などでなんだかんだと忙しいから、なかなかゆっくり食事ができる感じじゃないんですよ。だから全部が終わったあと、家に帰るタクシーのなかで食べる「ダース」のチョコレートが楽しみでした。いつもとは全く味が違いましたね。
――まさに勝利の味、ですもんね。
矢代:あとは、試合翌日の早朝に「松屋」へ行くのも恒例でした。試合した日って、ボクサーは寝ちゃいけないんですよ。脳に何かアクシデントがあった場合、そのまま休ませてしまうと目覚めなくなるケースもあるから。だから、寝ないで過ごすんですけど、明け方になったら試合のことが載っているスポーツ新聞を買いに行くついでに松屋へ寄るんです。そこで食べるカレー牛丼(カレギュウ)は最高でしたね。
――帰りのタクシーのチョコレートと、明け方の牛丼。食事制限の解除や勝利、重圧からの解放など、様々な要素も相まって最高の味になるんでしょうね……。2008年に日本タイトルマッチを制した時も、松屋へは行ったんですか?
矢代:いや、行けなかったですね。あの試合はほとんどパンチをもらわなかったので、ぐっすり眠れたんです。目が覚めた時に、枕元のチャンピオンベルトを確認して「本当に(タイトルを)獲ったんだ」と実感しました。そのあと、いつものようにスポーツ紙を買いに行こうと思ったら、興奮した両親がすでに全紙を買って用意してるんですよ(笑)。
その日は、そのまま地元への挨拶回りになったので、ゆっくり食べる時間もあまりなくて。それに、チャンピオンになると1週間後にパネル写真の撮影があるんですよ。それが後楽園ホールにずっと飾られるから、あまり太れない。しかも上半身裸なので、あまり太いとみっともないじゃないですか。あの時はせっかくチャンピオンになったのに、しばらく好きなものが食べられなくて辛かったですね(笑)。
――試合直後だと顔が腫れている人とかもいるから1週間後なんですかね。でも、確かに試合後にも節制が続くのは辛いですね……。
アウェイのいやがらせ、左拳の粉砕骨折……。襲いかかる試練
――ここからは矢代さんの現役生活についても振り返っていきたいと思います。プロボクサーとしてのキャリアのなかで、ターニングポイントになった試合を挙げるとすると?
矢代:プロになってトントン拍子で連勝していた頃に、ベネズエラへ遠征したんです。あの試合は予想外のことがいろいろ起きて……本当に大変でした。でも、そのぶんタフになりましたね。
そもそも、最初からドタバタだったんです。12月末に日本で試合を終えて、これでゆっくり年を越せると思っていたら、翌々日くらいの新聞に「矢代、1月にベネズエラで試合が決定」と出ていて。そのあとジムから電話がかかってきました。「新聞見た? そういうことだから」って(笑)。
――いったん切ったスイッチを、すぐに入れ直さないといけなかったんですね。
矢代:はい。なので、いつもは試合後に一週間の休みをもらうんですけど、すぐにトレーニングを再開しました。現地に行ってからも、意味が分からないことだらけでしたよ。おもしろかったのが計量の時。なぜか、“対戦相手”が2人いるんですよ。どういうこと? って聞いたら「信用できないから2人用意してる」って。要は、(試合を)バックれるかもしれないから、万が一のために保険をかけてるんだと。
――それ、選手からしたらたまんないですよね。直前までどっちとやるか分からないってのは相当キツイ。
矢代:本当にびっくりしました。あとは、嫌がらせもすごかった。そもそも、試合の開始時間をちゃんと教えてくれないんですよ。最初は夕方の5時と聞いていたので昼くらいに会場入りしたら「開始は7時だからまだ入れない」と言われ、その後も「いや、9時になった」と、何度も違う時間を言われました。そしたら結局5時だったと。
それも直前に言われたんですよ。「何してるんだ! もう試合だから早くリングに来い!」って。対戦相手はすでにウォーミングアップも十分で、しっかりグローブも付けた状態。こっちはまだジャージ姿で、汗もかいてない。なのに、もう入場曲を流そうとしてるんですよ。
――うわあ、露骨ですね。でも、相手を動揺させる効果は抜群……。
矢代:でも、トレーナーが落ちつかせてくれました。「とにかく落ち着け。どうせお前がリングに上がらなきゃ試合は始まらないんだから、待たせておけばいいんだよ」って。とにかく海外、特にアウェイの地では他にもいろんなことが起きるから、乗り越えれば得るものも大きいんです。それも、若い時に経験するとメンタルが強くなる。ちなみに、僕の師匠である浜田剛史さん(元WBC世界スーパーライト級王者)にその時のことを話したら、「俺の(現役の)時なんて、控室に入ったらビール瓶の破片が散らばってたぞ。まず、掃除から始めたよ」って言ってました(笑)。
――日本にもホームの利はありますけど、さすがにそこまではやらないですもんね。そんな、いろんな意味で刺激的な海外遠征を経て、矢代さんはその後も連勝街道を歩んでいきます。しかし、日本タイトルまであと一歩というところまで来て、練習中に左拳を骨折してしまいました。
矢代:スパーリング中、パンチが当たった瞬間に拳の骨が2本外れたんです。1本は腱に刺さって、1本は拳のなかに落ちた。浜田さんは、冗談なのか本気なのか「次の試合は右手一本でやれ。ちょうどいいハンデだろ」って言ってましたけど、さすがにキャンセルしてもらいました。左のパンチが打てないだけならまだしも、パーリング(グローブで相手のパンチをはじく防御テクニック)ができないと試合にならないので。
――それ以降、1年以上のブランクを余儀なくされました。
矢代:しんどかったですね。何もやることがないし、お金も日本ランキングもなくなった。しかも、その間に後輩がどんどんチャンピオンになっていくんです。焦りましたが、浜田さんがそこで「お前にはお前の道があるから焦らなくていいし、絶対にくさるな。これまで、挫折してくさっていく人間をたくさん見てきたけど、お前はそっちじゃない。信じてるから」と言ってくれました。
――浜田さん……温かい。素晴らしい師匠ですね。
矢代:本当に。今も心から尊敬している恩師です。現役時代は練習のしすぎでオーバーワーク症状が出るくらいストイックな人だったから、まずはボクシングに取り組む姿勢から叩き込んでくれました。浜田さんは最初から“答え”を言わないんです。まずは選手に考えさせて、自分の口でアウトプットをさせる。そこで、こちらの答えが間違えていたとしても否定せず、「それもそうだけど、こういう時はな……」という感じでアドバイスをしてくれました。まずは自分で考える習慣がついたのは、浜田さんのおかげでもありますね。
――矢代さんがプロ入り後、さらに練習の虫になったのも浜田さんの指導が大きかったんでしょうか?
矢代:そうですね。浜田さんの期待に応えたくて、必死で練習しました。それでオーバーワークになりそうな時は、浜田さんがちゃんとコントロールしてくれる。愛情のある厳しさを持った人なんですよ。
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――左拳が使えない時期って、練習はどうしてたんですか?
矢代:右手一本を磨いていました。それで結果的にジャブの技術も上がったし、逆に左で倒すタイミングも分かった。だから、怪我をしたことも全く無駄ではなかったと思います。でも、なかなか痛みは引かなくて。浜田さんは焦るなと言ってくれたけど、ズルズルとブランクが長引いて、忘れられてしまうことが怖かったんです。もう試合を組んでもらえなくなるんじゃないかって。
そんな時にお寺の和尚さんからかけてもらったのが「時計の針は12で一周。一周したら一区切りで、そこからまた生まれ変わるんですよ」という言葉。それまでプロでちょうど12戦していたから、今の自分の状況にぴったりだなと思いました。よし、13戦目からまた頑張ろうと。
――節目節目で、力になる言葉をくれる大人がいたんですね。復帰後はまた勝ち星を重ね、21戦目でついに初の日本タイトルタッチが巡ってきます。
矢代:当時は日本ランキング2位で、1位の選手との王座決定戦でした。ただ、相手は東北のジムの選手で、全く情報がなかったんですよ。今ほどネットに情報も溢れていなかったから、ボクシングスタイルすらも分からなくて。
――ぶっつけ本番。ただ、試合は矢代さんが終始優位に立ち、5RTKOで勝利します。試合序盤から、いけるという手応えはありましたか?
矢代:手応えは前日計量の時からありましたね。ジムのマネージャーが「矢代、相手の顔を見た? 傷だらけだね。けっこう打たれてる顔だから、バッティングにだけ気をつけて落ち着いて距離をとれば大丈夫」と言ってくれたのが自信になりました。マネージャーは96歳の今も現役で毎日ジムに顔を出しているんですけど、やはりこの世界に80年いる人の言葉は頼もしく、ものすごく力になりましたね。
――あの試合、僕も現地で観戦しましたが、矢代さんにとっては相性がいい相手に見えました。
矢代:確か、ファーストパンチで相手の目蓋が切れたんですよ。始まって15秒くらいで。それもあって、余裕を持って試合を運べたんですけど、タイトルマッチはどこに落とし穴があるか分からない。判定勝ちでもいいからジャブを丁寧について、とにかく“負けないボクシング”をしようと思っていました。
でも、4ラウンド目が終わった時に、レフェリーがこちらに近づいてきて「もう、ラッシュをかけなさい。ストップするから」と言ってきたんです。言われるがままギアを上げたら、本当に試合が終わりました。それで、リングを降りた後でレフェリーに挨拶に行ったら、すごく怒られて。
――どうしてですか?
矢代:「何をやってるんだ。お前がラッシュしなきゃ、試合を止められないだろ。あんなにレベルの差があるのに、あのまま長くやって相手を壊したらどうするんだ!」と。
――つまり、対戦相手の安全を考えての助言だったわけですね。
矢代:はい。その時に、この人は本当のプロフェッショナルだなと思いました。
――選手を無事にリングから降ろすことがレフェリーの最も大事な役割ですからね。ただ、矢代さんも相手をいたぶる気なんて当然なくて、確実に勝つために慎重に試合を運んでいただけだと思うんですが。
矢代:そうですね。これを逃したら、もうタイトルマッチなんて巡ってこないかもしれない。絶対に勝たなきゃいけないから、相手の傷口だけを狙ってジャブを打っていました。ただ、4ラウンドが終わる頃には傷がかなり腫れ上がっていたから、レフェリーからすると早くストップするべきという判断だったのだと思います。
――その後、3度目の防衛戦でプロ初黒星を喫し、タイトルを失います。そして、引退。結果的にこれが唯一の敗戦になったわけですが、負けたら引退しようと決めていたんですか?
矢代:負けたからというわけではなく、怪我の影響が大きかったですね。左拳以外にも、腰の痛みがずっとありました。それがだんだん悪化して、最後は納得のいくトレーニングもできなかった。試合当日に痛みが出ないようセーブしながらの練習になってしまって。そんな状態で世界なんて獲れるわけがないんです。毎日120%のトレーニングをしないと、上にはいけない。だから、引退を決めました。
――矢代さんはとにかく厳しい練習によって力をつけ、自信を築いてきた。その拠り所がなくなってしまったんですね……。
矢代:リングに上がるのは、いつも怖いんです。その恐怖を消すには、とにかく練習するしかない。その練習ができなくなった時に……もう、無理だなって。
ただ、自分としては精一杯やれたかなと。世界には届かなかったけどチャンピオンになれたし、ボクシングを通じてたくさんの方に出会えましたからね。
――貴重なお話をたっぷり聞かせていただき、ありがとうございました。最後に、プロ生活を通じ、「最も思い出深い一食」を教えてもらえますか。
矢代:引退を決めて師匠の浜田さんのところへ挨拶に行った時、神楽坂のイタリア料理店に誘っていただきました。そこで、初めて褒めてくれたんです。「よく頑張ったな。でも、俺が褒めると満足しちゃうから、今まで褒められなかった。おつかれさん」って言いながら握手をしてくれて。
浜田さんはそのあと予定があったので「俺のぶんのデザートも食べてくれ」と言い店を出て行って、僕は泣きながら2人分のケーキを食べました。味は全く覚えてないけど、それは忘れられない思い出ですね。
取材協力:矢代ボクシングフィットネスクラブ
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榎並紀行(やじろべえ)
1980年生まれ。ライター、編集者。編集プロダクション「やじろべえ」代表。アメリカで生まれたりしましたが英語は話せません。ぽっちゃりしています。
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