あのときの味わったことのない恐怖感…佐藤寿人の人生を変えた2試合【ごはん、ときどきサッカー】

FWとして数々の金字塔を打ち立てた

だが決してその歩みは順調ではなかった

2度の降格を経験しそのたびにチームに残った

そしてその時の記憶は今も生々しく蘇る

 

もしずっとJ1でプレーしていれば

記録はさらに伸びたはずだ

J2に降格した経験は彼に何をもたらしたのか?

そんな佐藤寿人のオススメの店を聞いた

 

佐藤寿人と2003年のベガルタ仙台


2003年、ベガルタ仙台は苦しんでいた。

 

初めてのJ1リーグ挑戦となった2002年は16位チーム中13位とギリギリ降格を回避。2003年は飛躍を目指すため戦力を補強し、開幕から4試合を終えた時点で首位と同勝点の2位につける。メンバーには日本代表経験者の森保一、小村徳男、山下芳輝、岩本輝雄らが名を連ね、順調な滑り出しだった。

 

ところが5節で初黒星を喫すると、そこから19試合に白星なし。クラブはJ1昇格の功労者、清水秀彦監督を交代させるものの、J1残留には黄信号が点灯していた。

 

最終節を前に15位の降格圏に沈んでいた仙台だったが、それでも希望はあった。最終節はアウェイ戦ながら残留を争う大分トリニータとの直接対決。引き分けは許されないが、勝てば残留をほぼ決めることができる。

 

この年、得点力アップの大きな期待を背負って仙台に移籍してきた佐藤寿人にとって見せ場となる1戦だった。それまで29試合に出場して9得点と、チーム内得点王。佐藤にとって舞台は整ったはずだった——。


昇格の苦しさを知らない選手が降格させてしまった

2003年、僕は仙台に移籍したとき「3番手のFWを探してる」と言われて加わってるので「すごい補強」という感じではなかったんじゃないかと思います。

 

ところがレギュラーだったマルコスさんや山下芳輝さんが両方ともケガがちで、開幕からどっちかが試合に出られないという状況だったので、結果的に僕が試合のスタートから出る機会が多くて。

 

自分のキャリアの中で初めてレギュラーとして戦えたシーズンでもあったので、個人的にはすごい充実してたんです。勝てない悔しさも含めて、出続けたことで経験を積ませてもらえました。

 

しかも仙台の街はJリーグのブームが少し遅れてやってきた感じでしたから、スタジアムは常に満員で、街を歩けばいろんな人に「応援します」って声をかけてもらって、背中を押してもらえるっていう環境でした。「これがプロの世界なんだ」と感じましたね。

 

2003年はリーグ戦30試合に出場して9得点ですから、振り返ってみれば最低限の数字は残せていたんじゃないかと思います。でも数字を残してるっていう感覚よりも、J1残るために必死で、自分の出来について考える余裕は全くなかったですね。

 

最初の4試合は勝って、本当にいいスタートを切れたんです。ヤマザキナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)でもホーム初戦は4-1でしたから、当時の社長がシーズンの出足いいからすごく喜んで「ボーナスだ」って選手1人ひとりに現金を手渡ししてくれた時期もあったんです。

 

でもそこから勝てなくなって。5節のガンバ大阪戦で負けて、セカンドシーズンのガンバ戦に勝つまで19戦勝利なしという負のサイクルに入っていきましたね。特にこのシーズンのJ1は非常に力のあるクラブが安定して勝っていたので、そこを上回るところがやはりなかなか難しかったと思います。

 

仙台には森保一さんを筆頭に経験のある人たちもいて、ぱっと見ると降格しそうにない感じがするメンバーなんですよ。でも選手はいるけど、実はみんなキャリアのピークではなかったと思います。

 

経験ある選手は本当にいろんな意味で「持って」ましたけど、プレーヤーとしてピッチの上で大きな違いを生み出せるという状況ではなかったですね。じゃあ若手はどうかというと、僕も含めてまだまだ学ばなきゃいけないことが多かったですし。

 

それにどちらかといえば、自分だけでどうにかする選手より、組織の中でしっかり個人が輝くというような選手が多かったと思います。清水秀彦監督にとって、経験値のある選手と若い選手をどう混在させて使うかバランスが難しかったでしょうね。

 

そういう中で、9月には仙台をJ1に上げた立役者でもある清水監督が交代することになったんです。そこで新たに監督就任してくれたのがジェフ市原(現・ジェフ千葉)時代に指導を受けていたズデンコ・ベルデニック監督でした。

 

ベルデニック監督は組織的に攻撃のイメージを作っていく作業をしました。けれど、やはり勝てない状況での就任だったので、監督の求める高いレベルのことを体現できるチーム状態ではなくて。

 

トレーニングはすごく成長できる、そして学ぶ要素がたくさんあるもので、監督が求めることはすごい素晴らしいんですけど、それはやっぱり体現できて初めて形になるから。正直、そういう状態とレベルではなかったと思います。苦しいときに一つずつ我慢強く積み上げることは現実としては難しかったですね。

 

そういう中で11月29日、セカンドステージ15節に最終戦の大分トリニータ戦を迎えたんです。仙台は開幕戦の相手が大分で、1-0で勝って勢いに乗って春先は非常にいいスタートを切れたという相手でした。僕は13節の京都サンガ戦で2得点していて、調子は決して悪くなかったと思います。

 

大分はともに残留を争っていて、お互いに負けたら降格が決まるという試合でした。仙台は引き分けでも残留できなかったので、シンプルにアウェイで勝つことができるかっていうところだったんです。

 

そういう状況は覚えてるんですけど、実は試合のことが全く記憶にないんです。どういうプレーができたかとか。入場者数が3万3,278人だったと記録には書いてあるんですけど、そんなに人がいたのも分かってませんでしたね。意図的に頭の中から消してたのかもしれないです。プレッシャーは感じてなかったんですけど。

 

唯一覚えてるはピッチ状態がすごく悪かったことですね。だから足下でボールを動かしながら戦うという形が作れなくて、長いボールを使って押し込んでなるべく高い位置でフィニッシュを狙う、空中戦が多い展開になったんですよ。

 

そして12分に失点するんです。一番衝撃的だったのは、30分に森保さんと岩本輝雄さんが交代したことですね。森保さんはキャプテンでしたから。先制された後、早い時間帯で2人を代えなきゃいけないというだけでもチームの苦しさを感じました。

 

前半うまく対応できずに時間だけが過ぎ去って、気づいたら試合終盤だったっていう感じでした。

 

公式記録上、僕はシュートを1本も打ててないですね。ピッチコンディションに合わせた一番いい判断ができなかったという印象です。ピッチ状態に合わせた最善の判断というものができていればまた違ってたかもしれないと今は思います。僕だけじゃなくて選手は、もしかしたら監督を含めて、もっと何かできたんじゃないかって。

 

後半、僕は66分に交代したんですけど、「とにかく誰でもいいから点を取って残留したい」という思いだけでベンチから見てました。71分、1点を返したんですけど、結局その後は1点も入らず、1-1の引き分けで降格が決まりました。

 

この試合って、仙台の昇格に貢献した選手がメンバーの半分ぐらいしかいないんですよ。結果的に自分も含めて、昇格の時の苦しさを知らない選手が出て、そして降格させてしまったと思いました。

 

2003年Jリーグ ディビジョン1 2ndステージ 第15節第1日
2003年11月29日 14:04キックオフ 大分スポーツ公園総合競技場

入場者数 33,278人 ピッチ 不良、水含み

大分トリニータ 1(1-0)1 ベガルタ仙台

大分:岡中勇人、有村光史、三木隆司、サンドロ、山崎哲也(83分若松大樹)、梅田高志、瀬戸春樹、エジミウソン(81分小森田友明)、寺川能人(74分木島良輔)、吉田孝行、高松大樹

仙台:小針清允、村上和宏、小村徳男、渡辺晋、數馬正浩、森保一(30分財前宣之)、シルビーニョ、岩本輝雄(30分金殷中)、根本裕一、山下芳輝、佐藤寿人(66分福田健二)

オシムさんがいたジェフから「帰ってこい」と言われた

実はこの前年の2002年、僕はジェフ市原(現・ジェフ千葉)からセレッソ大阪に移籍して大分と昇格争いをしてました。

 

ただ、個人としてはセレッソに移籍したあとギラン・バレー症候群で出遅れたんです。すぐ治ったんですけど、でも本当に競争が厳しいチームでもありましたし、その中でポジションを勝ち取れなかったと思いますね。森島寛晃さん、西澤明訓さんという日本代表選手がいたし、大久保嘉人も活躍して得点ランクで2位になってたし。でもすごく勉強になりました。

 

実はセレッソに行く前、大分の小林伸二監督からオファーをもらってたんですよ。だから自分の決断一つでキャリアはすべて変わると実感できたのがこの11月29日で、もしかするとこの大分vs仙台に大分の選手として出場していた可能性もあったんですよね。

 

ただ僕は仙台でプレーできてうれしいと思ってました。仙台はセレッソ時代の数字を残せなかった自分に対して、3番手であってもしっかりストライカーというポジションを与えてくれましたから。リーグ戦では13試合出場で2得点でしたけど、天皇杯では4試合で3ゴールを奪っていたので、そこをしっかり評価してもらったのがうれしかったんです。

 

そして仙台は降格してしまったけど、僕はジェフからの期限付き移籍だったので帰ろうと思えば帰れたんです。でも落とした状態でクラブを離れられないという気持ちがあって。

 

やっぱりストライカーは「あそこのシーンで自分が決めてれば」「あのシーンでちゃんと自分が得点を奪ってれば」って脳裏に焼き付いてるので、一番降格の悔しさとか責任を一番感じやすいと思うんですよね。

 

だから、試合終わってバスに乗り込む前にテレビカメラを向けられたので、「仙台に残って、J1に戻すために戦います」って言いました。

 

その後、ジェフからは「帰ってこい」という話をもらいました。僕はジェフで育ててもらって、ジェフを出たのは「しっかり経験を積んでジェフに還元する」っていうのが前提だったんです。

 

ジェフはイビチャ・オシムさん(故人)が監督をなさっていて、オシムさんの下では成長できるっていう話もあり、「帰って来い、構想の中に入ってる」ということも告げられました。

 

だけど仙台に残ることにしたんです。そして仙台にいるということは完全移籍になるという条件だったから、「もうジェフに戻れない」と思ってやっぱり辛かったですね。でもそれだけ僕がこの年1年でベガルタから、仙台という街から感じたものは非常に大きかったので後悔はありませんでした。

 

本当に仙台の街をすごく好きになりましたし。いろんな人に応援してもらえてる、いろんな人にクラブへの関心を持ってもらえてると感じる機会が多かったので、だからこそ期待に応えられないというのは苦しかったですね。

 

特に2003年は勝てない時期が19試合も続きましたから。だけど、その19試合の間も街に出ると、厳しい声はもちろんありましたけど、どことなく優しさがあったんです。それも仙台のよさでした。

 

この11月29日はJ2に降格することになってしまっただけで忘れることのできない日なんですけど、実はこの5日前に長男が誕生していて、個人的にはすごくうれしいニュースがあった後でのこの一戦だったので余計に忘れられなくなったんです。

 

大一番の前に長男が誕生して、自分の中ではすごいポジティブにこの試合までの時間を過ごして、その喜びから悲しみ、落胆っていうところにつながっていって。感情の起伏という意味ではこのシーズンオフがやっぱり一番つらかったですね。

 

今でも覚えてますけど、この試合が終わって仙台まで帰るまでに無力感、脱力感、喪失感とかいろんなネガティブな気持ちがあって、そんな感情を抱えたまま誕生した息子に会いに行ったんです。第一子の誕生はうれしかったんですけど、人生としては少し下り坂という感じを持ってました。

 

翌年は仙台でJ2を戦い、2005年、J1のサンフレッチェ広島に移籍することになりました。結局仙台を昇格させることなくクラブを出たので、この11月29日は一生忘れることがないですね。

 

そう言えば、テレビカメラに向かって「クラブに残る」って言ったんですけど、妻には相談してなかったので、あとで怒られました。ただ元々僕は、いろんな人に相談することがあっても、ある程度自分の意志で決めるし、妻も家族もそれは理解してくれているので、一度怒ったらそれで終わりにしてくれました。

佐藤寿人と2007年のサンフレッチェ広島


2007年、サンフレッチェ広島は一縷の望みにかけた。

 

前年度、2人で34点を挙げたウェズレイと佐藤寿人のコンビはこの年も2人で29点を奪い、チーム総得点の66パーセントを稼いでいた。ところが失点が止まらない。総失点71点はリーグワーストで1試合当たり2点以上を失っていた。

 

それでも順位は踏みとどまって18チーム中16位。J1・J2入れ替え戦でJ2リーグ3位の京都サンガとホーム&アウェイで対戦し、勝てば2008年もJ1リーグで戦うことが出来る。

 

1戦目となったアウェイ戦では1-2と敗戦を喫したものの、終了間際に価値ある1点を奪っていた。もし広島が2戦目のホームで1-0と勝利を収めれば、同点の時はアウェイで奪ったゴールが2倍になるというアウェイゴールルールで残留決定となるのだ。

 

クラブは最後のホームゲームを盛り上げるべく、全席自由、一律1,000円という破格の措置でこの1戦にかけた。当日、広島ビッグアーチには2万3,162人の観客が詰めかける。彼らが待ち望むのは、レギュラーシーズンで12点を挙げた頼れるストライカーの1発だった。


 

この入れ替え戦は2007年の出来事ですけど、2006年も開幕から勝てなくて、そっちのほうがJ1残留は厳しいんじゃないかという状況だったんです。ただ6月にミハイロ・ペトロヴィッチ監督が就任してくれたあと劇的に上向いて。

 

シーズンが終わってみたら10位まで順位を上げていたので、2007年はもっと上にいけるんじゃないかっていう期待がありました。実際2007年シーズンが始まって、中断前まではひと桁順位だったので、このまま上位を狙おうという意識でいたんです。

 

ところがリーグ再開後から本当に勝てなくて。再開初戦の15節鹿島戦で負けると、次の川崎戦は引き分けたんですけど、そこから5連敗なんです。

 

「1試合勝てば急激によくなる」と思いながら毎試合負けて、「でも次勝てば」で負けて。本当は1つ勝てば劇的に上向くなんてものではないんですけど、やっぱりそれまで勝っていたので、「これは少しのボタンの掛け違いだろう」ぐらいでしか思ってなくて、全く修正できないというか、悪くなってるのに気づかないまま、ずっと試合をこなしていた感じでしたね。

 

25節の浦和戦から29節の大宮戦までまた5連敗するんですけど、残留争いの直接対決だった大宮に負けたのがすべてだと思いますね。

 

前の年からウェズレイとコンビを組んで、2人で34点取っていましたし、この年も中断までは2人で量産してたんです。極端な話、守備はフィールド8人で守って、攻撃は僕とウェズレイで行ってくるみたいな感じでした。ところが途中から点が取れなくなったんですよ。相手のマークがタイトになってきたり、自分たちの動きにも少しキレがなくなってきて。

 

僕はシーズンの最後のほうはまた点を取ってるけど、シーズン途中は12試合無得点だったんですよ。その間ウェズレイががんばってくれてたんですけど、もしその12試合で僕が点を取っていればもっと勝点は積み上がっていたはずでした。

 

チーム全員が汗をかいて、ユニフォームを汚してボールを僕たち前線2人につなげてくれていて、僕たちがゴールを奪う仕上げをしっかりやれていたので信頼関係を生み出せていたんです。

 

その仕上げのところができなくなってきてるとき、どことなくチーム全体が信頼関係を保てなくなってしまいました。前線の選手からすると「なんでそんな簡単に失点するんだよ」ということになるし、後ろの選手が「もっと前の選手でボールをキープして、守備のところでもスイッチを入れてほしい」っていうところはあったと思うんです。

 

それまでFWが点を取ってたことで、本来守備側の選手が言いたかったことが、多分ぼやけてしまっていたと思うんですよね。もしかしたら守備の選手はもっと前線の選手にリクエストしたかったけど、でも「そうは言っても前線の選手は数字上げてるから、ここはちょっと我慢しとこう」「ここは言わないでおこう」というのは少なからずあったと思います。

 

本当にいいときこそ、その中でもお互いにちゃんと要求をして、健全なコミュニケーションが必要だったんです。悪くなってからじゃ遅いんですよ。

 

チーム状態が悪くなると、前線の選手は後ろの選手からの要求を素直に聞けなくなります。まったく耳を傾けないわけでもないのですが、「いやいや、お前ちゃんと守れよ」っていう感情もあってちょっとした軋轢も生まれてくるんです。

 

しかも前の年はある程度成績が出てるから、「守備さえしっかりしてれば上がっていけるのに」って思ってるんですよ。でもそれはあくまでも前の選手の見方だけなんですよね。

 

それにそもそも前の選手、後ろの選手という表現がダメだったんです。チームとして結果を出すためには、いろんなことでお互いが歩み寄ることも必要だろうし、お互いが理解していくことが大事なんですけど、その意識は希薄でしたね。

 

良かったときに言い合ってなかったから。悪くなってからは言ってましたけど、それはお互いの言いたいことだけを言ってるだけなんで。悪い部分は目につきますけど、それを修正すればいいっていうわけでもないし、そんな簡単に修正できるものでもないですし。

 

こういう苦しい試合になってくるとチームがまとまることもあると思うんですけど、この入れ替え戦でまとまることはできませんでした。やっぱりシーズンを通して負のサイクルに入ってしまったので、最後だけまとまることができる状態じゃなかったんです。

 

相手の京都サンガは入れ替え戦まで来て、勝つことでの信頼関係、成功体験で絆ができてきてるんです。そうなるとカテゴリーの差なんて埋まってしまうんですよ。お互い信頼関係を持ってキックオフを迎えられてるかというスタートの時点で、多分京都が上回っていたのだと思います。

 

それで初戦は負けましたけど、最後の最後にアウェイゴールが決まったんです。でも、アウェイゴール取ったぞっていう感じじゃないんですよ。負けてはいけない試合で負けてしまったっていう雰囲気で。アウェイゴールを取ったことが希望になってる状況じゃなかったですね。

 

第1戦目のときチームがなかなかうまくいってなかったから、第2戦を前にキャプテンの戸田和幸さんが監督のところに「自分のことを気にせず代えるんだったら代えてくれ」と言いに行ったらしいんですよ。それで第2戦では僕がキャプテンマークを巻いてこの試合に臨んだんです。

 

それで迎えた第2戦だったんですけど、あとにも先にもあんなにサッカーするのが楽しくなかった時期はなかったですね。トレーニングもつまらないですし、もちろん試合もつまらないっていうか、もうなんかワクワクしてその試合に入るわけではないので。

 

それで14分、僕のヘディングがバーに当たるんです。ああいうところを決めきれなかったところにすごい責任を感じました。でも早い時間帯だったので、まだ十分その後チャンスがあると思いましたけど、ただ気づいたら前半が終了に近づいてきてるんです。

 

後半がキックオフして、時計の針が少しずつ進むにつれて自分たちに残された時間が少なくなってきてるのを体感するわけですよ。そうするとJ2降格へのカウントダウンみたいな、それまで味わったことのない恐怖感が襲ってきたんです。

 

後半アディショナルタイムに槙野智章がオーバーヘッドして、そのシュートがポストに当たってこぼれ球がゴールライン上を横にコロコロと転がって。ボールが自分の前にこぼれてこないとわかったとき、J1に残る資格がないと言われたような気がしました。

 

スタジアムは、京都側からするともちろん歓喜の瞬間ですし、僕たちサンフレッチェからすると本当にもう……なんとも言えないスタジアムの空気感でした。試合後、京都のパウリーニョが慰めに来てくれたことだけは覚えてます。

 

あのときの感情は悲しみとか、怒りとかも通り越して……無力感に近い感じでしたね。選手もスタンドにいる多くのファン、サポーターも、みんな呆然としていたような感じでした。

 

降格したときにキャプテンマークを巻いてましたし、やはり前半のチャンスで決めてれば状況が変わっていたという部分もありました。だからこそ自然に「自分の言葉で直接伝えなきゃいけない」「1年で戻るっていうものを明確に意思表示しなきゃいけない」と思って、サポーター席に行って「チームに残留するし、1年で戻ろう」と声をかけたんです。

 

J2に行くことになっても、僕の中では「1年だけでしょ? 1年で上げればいいんでしょ?」って思ったんです。そうは言っても仙台では上がれなかったわけですけど、でも仙台に上がれなかったときに感じたものを、広島で出そうと思いましたから。

 

悔しさを味わった選手たちでもう1回J1で戦うためにチームを作っていこうと思って、選手が抜かれてしまうとなかなかチームが力を保つってことは難しいから、降格した日に、チームメイトには「残って来年も一緒にやろう」って声をかけてましたね。

 

この時は日本代表も入ってましたけど、J2でプレーすることに迷いはなかったですね。妻は、仙台のときはまだ「しょうがないね」っていう感じでしたけど、このときは「何言っちゃってんの?」っていう感じでした。「感情が高ぶったから言ったんじゃないの?」って心配してたんです。

 

「あれ、わざわざカメラ回ってるとこで言わなくてもいいんじゃない」っていう話はされました。ただ、あれはカメラじゃなくてサポーターに向けてでしたからね。それから家族は「きっと広島に残るよね」っていう話もしてたようです。

 

2007J1・J2入れ替え戦 第2戦
2007年12月8日 16:04キックオフ 広島ビッグアーチ

入場者数 23,162人 ピッチ 全面良芝、乾燥

サンフレッチェ広島 0-0 京都サンガ

広島:下田崇、槙野智章、ストヤノフ、盛田剛平、駒野友一、森崎和幸、服部公太(HT李漢宰)、森崎浩司、柏木陽介、ウェズレイ(71分平繁龍一)、佐藤寿人

京都:平井直人、渡邉大剛、角田誠、森岡隆三、手島和希、石井俊也、斉藤大介(56分アンドレ)、中谷勇介、中山博貴、田原豊(67分徳重隆明)、パウリーニョ(89分秋田豊)

 

身をもって知ったJ1とJ2の違い

僕にとってこの2試合は、サッカー人生だけじゃなくて、本当に人生を左右する2試合だったと思います。改めてやっぱりJ1とJ2はまるで違うと思いますし、今はJ3までできて、昇格や降格っていうのがスタンダードな世界になってきてますけど、差は大きいと感じてます。

 

自分のキャリアを遡れば、2002年セレッソに移籍してJ1への昇格を経験して、その翌年に仙台で降格したのでいろんなものが変わるというのをまざまざと感じました。やっぱりJ1からJ2にカテゴリーが変わる結果になってしまうと、生活とか環境とか、大げさに言えば人生が変わりますよ。

 

カテゴリーが違うと人々の関心がまるで変わってくるんです。地元の方々の試合に対する興味の度合いも違いますし、J1の試合はしっかり結果が報じられますけどJ2は結果さえ報じられないこともありますから。J2だとまず試合がやってるかどうかがサッカーファン以外には伝わってないんです。

 

それに2004年、僕は20点取ってるんですけど、J1では大黒将志くんが20点取って、同じ20点なんですけど報じられ方が全然違って、J1とJ2ではまだ大きな差があるって痛感しました。価値が違いますよね。

 

J2で1年プレーすることになると、サッカー選手は選手生命が短いのでその1年は大きいですよね。直接的な表現で言うと、稼ぐことを考えるとやっぱりJ1でないと厳しいですし。

 

2003年も2007年も悪いスタートじゃないんですよ。いいスタートを切ってるのが共通項としてあって、そのいいときにチームの中でしっかりコミュニケーションを図って、お互いのプレーイメージを共有するのが必要だったと思います。

 

悪くなったときに建設的な言葉のキャッチボールは難しくなると思うんです。いいときこそ、そういうものを怠らない。それは僕自身2度の降格で一番学んだ部分です。あの降格がなければ、という気持ちはもちろんありますけど、そうは言っても、多分僕1人の力じゃどうしようもなかったし、自分自身にも力がありませんでした。

 

もし、2003年も2007年も開幕前の自分に何か伝言できるとしたら、「厳しいシーズンになるけど、どういう結果になってもしっかり前を向いて、また次のシーズン戦うために準備しよう」ということですね。

 

苦しいときも全部が全部悪いわけではないので。勝負の世界だからこそ、悲しいですけど誰かしら敗者になってしまうし。みんなが勝者でいたいと思いますけど、残念ながらそうではないので、だからこそ負けたときにその負けから個人としてもクラブとしても何を学んで、そこから次の輝くステージに一歩踏み出せるかということが大事だと思います。

 

今、解説の仕事をするときに思ってるのは、やっぱり主役は選手だということです。あんまり知識をひけらかすのもどうかなっていうのがあります。もちろん戦術的なことや監督の狙いとかは大事だと思うんです。

 

でも僕の考えですけど、解説はあくまでもちょっとした脇役でいいと思うんですよね。やっぱり主役は選手たちで、ピッチ上でぶつかる音とかボールを蹴る音とか、何かそういうのがもっと主役になってほしいと思ってます。

 

一応指導のライセンスも勉強しながら、でももっとサッカーの環境を作ることもやっていきたいと思ってます。特に地方はまだそこが少ないから。引退する選手のセカンドキャリアの場所になると思うんです。関東ならそれほど困らないかもしれないんですけど、地方になれば、特に広島では引退選手全員がサンフレッチェに残れるわけじゃないんで。

 

広島で長く生活して、広島で家族と過ごしたいという人に、サッカーに携わる仕事を何かと考えたときには、子供たちがいい環境といい指導を受ける場所をつくることじゃないかと思ってます。引退後にキャリアを歩めることにもつながると思うんで、そういうところもやっていきたいと思いますね。

 

外食で人との繋がりを感じられるのが嬉しい

最後、食べ物でしたね。

 

このコロナ禍でもいろんな地方に行くことが多くて、その地元の名産を食べることがすごい楽しかったんですよ。現役のときって、遠征でいっても地のものを食べるのはそれほど多くないんですよね。ホテルで食事したりするんで、ある程度試合に備えてのメニューになりますから。それに選手のときはコンディションを考えると食べたいだけ食べるというわけにもいかない部分がありましたし。

 

ユースのころから食べたいものを食べる食事とかしないんですよ。だから野球選手は羨ましいと思ってました。連戦で3日間同じ場所にいるじゃないすか。その間にその土地のものを食べる機会があると思うんです。でもサッカー選手はアウェイに行って試合が終わったらすぐ帰りますからね。

 

今でも子供たちにサッカーを教えるんで体型を変えないようにしっかりトレーニングしてます。ちゃんとプレイできないと、いくらいい言葉を伝えたとしても説得力がなくなってしまうと思うので。プレーを見せることで子供たちは一番理解してくれると思いますから、選手と同じとまで言わないですけど選手並みの状態でいたいと思いますね。

 

ただ、引退してからは好きなものを食べてます。富山に行ったらホタルイカや鱒鮨を味わいましたし、仙台に行けば牛タンを気兼ねなく味わうことできましたし。先日久しぶりに家族で宮島へ行ってきたんですけど、穴子飯とか牡蠣を食べてやっぱり美味しいと思いましたね。これからはもっと食事も楽しんでいきたいなと思いました。

 

じゃあ、最近食べたもののベスト3です。

 

まず引退してから収録現場とかに行くことが増えてるので、ちょっとしたものを手土産として現場に持っていくんです。そんなときにいいのが幕張にあるハマノコーヒーのドーナツですね。そのドーナツがすごい個人的に好きで、これは紹介したいです。最寄り駅は総武線の幕張駅で、僕は千葉にいるとき週半分ぐらい行ってますね。

 

選手のときはそういう感覚がなかったですけどね。収録とか制作のときに現場のスタッフさんがサッカーに対する熱量を持って働いてくれてるのをすごい感じることが多かったんで、なんかそういう人に食べてもらいたいなって思って。

 

次に宮島へ行ったときにあなご飯を食べたお店です。「あなごめし 和田」っていうお店なんですけど、4年前に行ったときのことをずっと覚えてくれていて、そういう人との繋がりっていうのも外食するときにうれしいと思う部分の1つですね。小学校1年生になった三男を連れて行ったんですけど、4年前はまだベビーカーに乗っていたんですよ。それが普通にテーブルに座ってあなご飯を食べられるようになっていて、子供の成長した姿をお店の人に見てもらえたのもよかったですね。

 

それから、今はまだ新型コロナウイルスの影響があるから、選手とかチーム関係者と食事に行くのは立場的にちょっと控えてる部分があるので、1人で食事に行くこともあるんです。それで名古屋ではメチャクチャ好きな「山本屋本店 名古屋駅前店」の味噌煮込みうどんを1人で並んで1人で食べました。ここはおいしい漬物も出てきて、その漬物をおかわりできるんですよ。この3つ、ぜひ食べてみてくださいね。

 

紹介したお店

山本屋本店 名古屋駅前店
〒450-0002 愛知県名古屋市中村区名駅3-25-9 第1堀内ビルB1
1,000円(平均)

※電話番号、営業時間、定休日、メニュー、価格など店舗情報については変更する場合がございますので、店舗にご確認ください

佐藤寿人 プロフィール

2000年、ジェフ市原ユースからトップチームへ昇格。その後、セレッソ、ベガルタ、サンフレッチェなどを渡り歩き2020年にジェフ千葉で引退。2006年には日本代表に選出され、国際Aマッチ31試合に出場。2012年にはJリーグMVP、J1得点王を獲得した。1982年生まれ、埼玉県出身。

 

佐藤寿人さんはぐるなびを使っているそうです(嬉)

 

森雅史 プロフィール

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

【関連リンク】

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Source: ぐるなび みんなのごはん
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